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『映画 トロピカル~ジュ!プリキュア 雪のプリンセスと奇跡の指輪!』と『ハピネスチャージプリキュア!』の近似性(ネタバレ言及)#precure #トロプリ

 ※トロプリ映画のネタバレ内容です。未鑑賞の方は読まないでください。

 ※また、ハピネスチャージプリキュア!(ハピチャ)の本編・映画内容ともにネタバレ含みます。ハピチャ未鑑賞の方は(ハピチャ鑑賞終えるまで)読むのを避けることをお勧めいたします。

 トロプリ映画はハトプリとの無理なコラボによって、物語展開・話題の軸のブレ、大幅な尺の圧迫……と多大な弊害を受けた。種々の具体的な問題内容は下に貼るnoteリンクで具体的に言及している。

 トロプリ映画はシャロンに対するシャンティアの歌でクライマックスを終える。また、ラストもショッピングモールでローラが「(シャンティアの歌という)私達の歌」を披露し、消えゆくシャロンに約束した通り、皆に広めて“永遠に”歌い継ぐ端緒としている。こうした“歌”を着地点とするのは近年の超傑作『映画 スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて』が記憶に新しく、両者に近縁性が認められるが、ここでは(トロプリ映画と)ハピチャとの近しさに触れていこうと思う(トロプリ映画、ハピチャともに成田良美脚本なのは興味深い)。

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 ハピチャ映画では踊れなくなったつむぎが(ブラックファングの力で)自分の脚が自由に動き、人形の友達に囲まれた理想の国:ドール王国を作る。トロプリ映画では女王即位の日に彗星の災厄によって国の全てを失ったシャロンが隕石の力で在りし日のシャンティア王国を模した世界を作り出す。

 ともに突発的な不幸によって断ち切られた日常の夢を虚構の非現実世界への安住で取り戻そうという物語。ハピチャ映画はキュアラブリー達プリキュアがつむぎに愛・友情・希望を与え、トロプリ映画はローラがシャンティアの歌を歌い継いで世界に広める約束をしてシャロンが希望を信じる、といった形でそれぞれの物語クライマックスを終える。ともにプリキュアの力で及びようもない(ハピチャ映画はブラックファングのマッチポンプだが、それが判明してなお倒した後つむぎの脚が完治するかは不明だった。キュアラブリーにバレリーナの夢を伝えるあたり、承知したともとれるかもだが)現実を、プリキュア達が単なる戦闘能力でない、しかしプリキュアの資質に相応しいヒロイン的な想いを伝える(ハピチャ映画、トロプリ映画両作品に共通するのは“希望”である)ことで救いを与える。

 ハピチャ48~49話――すなわちハピチャ作品全体のメッセージ性(メインはクイーンミラージュ浄化までの『誰かを不幸にしても自分の幸せが得られるわけじゃない』だろうが)に関わるラストとの共通性もまた明瞭である。

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 惑星レッドを愛していたが、守れなかった神レッド。シャンティアを愛していながら大昔の戴冠式の日に国が滅び、守りたかったものも失ったシャロン。隕石の力でシャンティアを復活させようとしたシャロンと異なり、レッドは「愛など無意味」と(弟ブルーへの嫉妬も手伝い)地球を滅ぼそうとする方向性の違いはあるが、守りたいと思ったにもかかわらず失ったものへの想いが原動力となっている点は同様である。

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 永遠への希求と諦念――そして再希求。レッドもシャロンもともに守りたいものを失ったがばかりに「永遠などあり得ない」とばかりに諦念を持っている(しかしプリキュアの「永遠に」の言葉に強く反応するあたりは真なる内心の切望を示してはいる)。しかしキュアラブリーは愛が1人1人の心の中から生まれ続けることを示し、キュアラメールはシャンティアの歌を歌い継ぐことによってシャンティアの存在証明の不滅性を保証する。

 ハピネスチャージプリキュア!本編と映画、トロピカル~ジュ!プリキュア映画。不幸拒否・逃避としての虚構世界構築(NS3もそれに近い性質を持つと言える)、永遠への希求のあり方――成田良美氏がシリーズ構成と脚本に関わったことでそれぞれの作品は驚くほどの同質性を持つ。

 初めに述べた通り、トロプリ映画は超傑作スタプリ秋映画との共通性も明白である。歴代プリキュア映画二大傑作といえば多くがハピチャ映画とスタプリ映画を挙げるだろう。失われたものへの想いと“歌”への着地(さらには永遠性の希求)――良いとこどり同士で、本来トロプリ映画もこれら二大傑作に並び、三大高峰たりうるところだった。そうした可能性がハトプリとの無理なコラボで瓦解したのは(レッドやシャロンではないが)悔やんでも悔やみきれない。


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