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『映画 トロピカル~ジュ!プリキュア 雪のプリンセスと奇跡の指輪!』ネタバレ感想 #precure #トロプリ

 ※トロプリ映画のネタバレ内容です。未鑑賞の方は読まないでください。

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 トロプリ映画を観ました(2度鑑賞済み)が、残念な出来でした。必要な描写無く、唐突にご都合主義で展開していく。作品メッセージ性の不明瞭さが何より手痛い。こうした問題はハトプリ登場・描写による尺制限と話題の軸のブレによるところが大きい(スタプリ秋映画と同じく“歌”に着地していく物語なのに、えりか絡みでファッション、つぼみ絡みで花に話題の軸が不必要にブレていくことで流れが阻害され、たださえ短い尺が圧迫を受けもする)。ポテンシャル的には凄い可能性を秘めた作品だけに、非常に惜しいと言えるでしょう。

 同じ成田良美氏の(シリーズ構成と)脚本によるハピネスチャージプリキュア!との近縁性についてはこちらの記事で言及しておきました。

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 昔栄えていたシャンティアが隕石によって滅んだことをシャロンが語った時、キュアムーンライトが1万3千年前の彗星の衝突の話をする。それ自体は我々現実世界の史的事実:ヤンガードリアスの原因説と絡んで論じることができるにしても、シャンティアの具体的な存在年代も位置もともにはっきりしないのになぜ(ヤンガードリアスと)断定できるのか(我々現実世界におけるヤンガードリアスの原因が実際に彗星の衝突によるものかどうかの議論はこの際置いておくとする)。一人匿われたシャロンがシェルターから出てきた時には国が滅んでいたことから、彗星はシャンティアにほぼ直撃したと見られるが、シャンティアがヤンガードリアスの彗星原因学説における衝突位置:北米大陸と同一視する根拠がない。

 ハトプリ勢が捕らえられた後、キュアパパイアが「(ハトプリは)地下に捕らえられている」としたが、トロプリのプリキュア達がそれを知り得る描写はどこかにありましたっけ? 地下に(捕らえたものを入れる)牢屋があることを知るのは落ちたくるるんと迷い込んだポプリだけのはず。ましてハトプリメンバーがそこに入れられたとどうやって知ったのか。

 ローラ/キュアラメールがシャロンを倒すのでなく、心に寄り添う決意をするのだが――キュアパパイアが「(シャロンと)心を通わせたラメールなら」と言う。ローラとシャロンが相当仲良くしたことはローラが受け取った指輪から窺い知れるが(シャロンから受け取ったらしきを初めに指摘したのもみのりん先輩で、この点は一貫性がある)、それにしてもこれだけの重大事を無条件に託すに足るほどの意気投合・心の通わせなのか(実際に2人の関わりを見聞きせず)間接知識しかないみのり/キュアパパイアには判じようもないはずで、どうも引っかかりがある。

 そもそもグランオーシャンとシャンティアの国交を結ぼうと思っていたシャロンがローラを返そうとしないのもおかしい(2人だけの意気投合の際の思い付きでないことは、戦闘状態になってからも「友好国になろうと思っていたのに」発言からわかる)。

 シャロンがローラに贈った指輪は「相手の幸せを想って贈る指輪」「気持ちに反応して光る」だが、シャロンの最期の際ではローラの指から離れて宙で光り輝く指輪を見たシャロンが「プリキュアが……私の幸せを想ってる……」と呟く。「相手の幸せを想って“贈る”」性質がなぜか『光る=相手の幸せを想う』に意味合いがスライドしている。ひょっとすると本来の持ち主で指輪のことをよく知るシャロンのみに読み取れる要素があったにせよ、それを匂わせる描写は皆無。

 キュアブロッサムがシャンティアの花:スノードロップが世界で広がっているとするが、スノードロップがシャンティア原産とする根拠が全く無い。

 さて、トロプリ映画は歌でシャロンの心を氷解させることで彼女を安らぎに導く。我々はこれに関する偉大な先例を知っている――名作スタプリ映画である。二番煎じ・二匹目のドジョウ狙いかどうかは全て(そうしたトロプリ映画の)説得力次第だが、△印といったところだろうか。スタプリ映画のような圧倒的感銘で迫ってはこない。

 スタプリ映画では全くの0から人格(星格?)を成長させてきたユーマの心を鎮め・寄り添うものとして『星のうた』――“音楽”のプリミティブ性が描写されてきた。我々の幼児期、安らぎに誘ってくれた子守歌の如く心に染み入り、また(ユーマの)未来にも繋がる――そうした感覚がユーマと、(ユーマのありようを想像して)共感する我々鑑賞者で共有され、イマジネーションの爆発となり――こうした偉大な詩的効果が認められる。

 トロプリ映画での“歌”の効果は異なってくる。在りし日のシャンティアの歌という所与の記号的性質を持ち、スタプリの星のうたのようなプリミティブな(ユーマの)感情獲得描写が作中なかった。もちろんそれ(シャンティアの歌)が大切な意味合いを持つことはシャロンが一人で歌い、後ローラに教えた際の何となく察することの出来る思い入れのありよう、映画クライマックスでシャロンの目に歌を歌う(在りし日の)国民の幻影が映ることからわかるが――どうもピンと来ない。シャロンにとってシャンティアの歌がどれだけ大切な意味合いを持つかの描写が事前に十分無かったため、こうした歌での終わり方の取って付けた感が否めないのだ。

 また、プリキュア達がシャロンに対してシャンティアの良さを訴えるが、シャロンによる作り物の世界に短期滞在しただけでどれほどわかるというのか。

 キュアラメール以外のプリキュアも歌に参加するが、どうやって歌詞とメロディーを知り得たのかという問題がある――プリキュアの共感的超能力でラメールから精神伝達されたと見てもよく、些末事にこだわるべきでないという考えはあろう。しかしシャンティアの歌には(歌を伝えるにあたって)シャロンのローラへの信頼の証・2人の心の通わせの尊さの側面があるのも確か。

 「永遠なんてありえないわ」とするシャロンに対してキュアブロッサムはスノードロップが世界で咲いていることで不滅を諭しているが、すでに書いた通り、スノードロップをシャンティア原産とする根拠が無い。そもそも“心の花”のスノードロップと現実の生態学上のスノードロップ植生を同一地平で論ずることに無理がある。ハトプリを強引に捻じ込んでの心の花絡みのこじつけに持って行こうとする態度がありあり。ハトプリとのコラボを初めから無しにし、ローラが部屋でまなつ達トロピカる部の皆にシャンティアの歌を教えるという体裁を取れば、シャロン相手にプリキュア皆で歌い出す整合性が取れ、何より伝播による歌――シャンティア王国の記録の不滅性の証示ともなっただろう。

 「この歌を継いでいく」のローラ/キュアラメールの決意・断言は極めて説得力があった。ここら辺を軸に作品メッセージを紡いでいくべきでなかったか。

 スタプリ映画もトロプリ映画もともに“歌”による癒し・これからの眼差しを物語の着地点としたが、スタプリの方はララとユーマの想い――繋がりに主眼を置いて、そこから一切ぶれることが無かったため、最終の感銘・詩的効果は壮大なものとなった。一方トロプリの方はハトプリとの関わりが明らかにそういった流れを阻害している。えりかとのファッションのやり取りをするぐらいなら、もっとローラや他プリキュアとシャロンとの関係描写を行うべきだ。また、シャロンが在りし日のシャンティアに思いを馳せるシーンをほのめかし的演出で入れるといったことも出来ただろう。

 このように諸々の難が認められ、やはりハトプリがしゃしゃり出たことによる物語展開・話題の軸のブレ、尺が奪われたことの弊害が非常に大きい。

 ハトプリの取った尺は(変身バンク時間含めて)20分か25分かそれ以上か――具体的な時間はわからないが、それだけあればシャロンとプリキュア達の物語を心情・外的事情ともにいくらでも精緻に組み込んでいくことが出来たろう。そもそもコラボ自体悪手だが、どうしてもハトプリを登場させるにしても、雪合戦で遊んだ後、次登場するのは戦闘危機の時だけでよかった。ファッションの下りは作品本筋・テーマ性から言って完全不要で、えりかの特技をひけらかしたいがための優遇措置にしか見えない(それによって物語の説得性ばかりかトロプリキャラさえ霞むのだから最悪手と言ってよい)。

 最終的に(スタプリ映画と同じく)“歌”に着地していく物語にえりか絡みで余計なファッション方面に話題をブレさせていくのは稚拙としか言いようがない。120分映画ならともかく、無駄が許されない70分映画でこんな愚行をやってしまうかの感。

 トロプリ、ハトプリともに全員単独の変身フルバンクだが、9人分によってロスした時間は10分以上か――70分映画でこれは酷い。しかも全戦闘シーンを足したよりもフル変身バンクに要した時間の方が長いのでないか。

 ヒープリもプリキュア5GoGoと共演し,、ほぼやられ役だったプリキュア5の登場意義は不明ながら、カグヤと我修院サレナの物語による作品メッセージの明瞭性は確保されていた。トロプリ映画ではハトプリに取られた尺のためにシャロンの内面心情や彼女にとってのシャンティアの歌の価値がよくわからないところがある。

 えりかの態度は大いに問題がある。初めのローラとの衝突の際は後に反省の意を示したから(これにあたってシプレ・コフレが働いてくれたのは大きいし、嬉しい)良い感があったが、最後シャロンのことを思って感極まるローラを茶化したのは本当に酷い。物語の余韻にも関わるところだけになおさら。私は別所でハトプリ本編中でのつぼえりの幼稚性を指摘したことがあるが大切な物語の終わりらへんでこういったことはやめてよ……また、キュアマリン自身もシャロン消滅の様を目の当たりにしているのに、ああした態度を取るというのは人の心があるのかと思ってしまう。

 また、映画前半でえりかが自分とローラが似ている的なことを言うが、お互い奔放でも、やるべきことをきちんとやるローラと(10話でまなつを戻すため泥水に果敢に潜り、14話では身を挺して保育園児を守ろうとし、15話ではみのりん先輩と入れ替わって自由に動くチャンスを得てさえ桜川先生に指摘されたら素直に横断幕作業に戻った……等々)、社会性が発達しているとはいえないえりか(夏休みの宿題が嫌で中学校の破壊もデザトリアンに提案してみたりしている)では、不当な比較である。もちろんえりか個人の諸々の魅力を否定するものでないが、こと(映画中で起こったいざこざの問題の根となる)社会性に関してローラとえりかでは比べようもないだろう(映画中で先にちょっかいかけたのもえりか)。

 上で触れたヤンガードリアスの件も、キュアムーンライトが説明役として口を出すのはキャラ的に違和感を覚える。全体の発言バランスを取らせようという考えだろうが、こういった時に博識を発揮する役割はキュアパパイア/みのりん先輩の方が自然。

 最後の戦闘決め技で出てきたのはハトプリの巨人で、これまた酷い。これはトロプリ映画でないのか。

 おしりパンチは拳で雪の怪物を殴ったキュアサマーの「冷た~い!」に対する対処法と捉えることが出来ますね。

 くるるんが初めに皆の前で牢屋の引き戸を開けて移動した時、プリキュアも妖精も誰も戸開け動作の動き・音に気付かなかったのはなぜなのか……(実は引き戸でしたというのはシリアスの息抜きになる児童向けアニメっぽいギャグ要素で、それ自体は良かったです)

 シャロンはキャラ造型も声の演技も素晴らしかったです。もっと丁寧に描写してくれれば歴代プリキュアでも屈指のキャラとなったでしょう。つくづく惜しまれます。

 壮大な歴史設定と個の強い想い――この2つが交わり、とんでもなくスケール大きな傑作に育ち得る可能性を秘めた作品だったのに、ハトプリによって台無しにされた。コラボに疑念を抱かないプリキュアファンも多いようだが、例えば超傑作スタプリに過去のプリキュアが参入してきたら台無しになることは容易に想像できるはずです。

 とにかくハトプリによって尺が大幅に削がれ、必要な描写時間を失ったこと、しかもトロプリ・ハトプリ双方でキャラ描写が中途半端になったことは非常に手痛い。次作は2022年秋映画とのことだが(春映画は無いの?)恐らくスマプリとのコラボ。これは一体どうなるのか……

 劇場グッズはマグカップを買ったが、もっとカラフルな柄が良かったですね……恐らく雪の国を意識しての白基調にしても、プリキュア達が分割画面で並んでいるだけというのも……プリキュアマグカップ厨としてはやや寂しかったです。

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