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ナナオサカキ

ジョージ・カックルさんの本を読んでいたら、アレン・ギンズバーグやビル・バロウズのことを書いたくだりで、ふとナナオサカキさんのことを思い出した。「日本人のビートニク」と言ったら限定しすぎていてご本人は怒るかもしれないけれど、ギンズバーグやバロウズと同等に評価される日本人ということで、実際にナナオさんに会ったことのある僕はなんだか自慢げな気分になってしまう。

僕がナナオさんに会ったのは、知り合いの家を貸し切って行われた、アットホームな感じのイベントだった。参加者は20人くらい。ナナオさんの詩の朗読があった。僕はそれまでナナオさんのことなんてまったく知らなかったけれど、実際のそのイベントに参加してみて、うまくはいえないけど、ナナオサカキという人に酷く魅了されてしまっている自分を発見することになった。

詩を朗読するナナオさんの写真を撮ろうとして携帯をかざして何枚か撮ったのだけれど、あとで見返してみたら、撮った写真は全部手がぶれていたりして画像が歪んでしまっていた。妙な光が入ったり、画像がボケていたり。もしかしたら緊張したりして写真を撮る手がぶれてしまっていたのかもしれないけど、なんだか、「この人の写真を撮ってはいけない」と言われているように思えた。そういうことって、ないですか? 仏壇や祭壇にレンズを向けてはいけないとか、神サマに向けてカメラを向けてはいけないみたいなこと。なんだかそれを思い出した。ナナオサカキさんはカメラを向けてはいけない存在なのではないかと。実際にはそんなことはないのかもしれない。写真を頼んだら気さくに応じてくれる人かもしれない。ピースサインなんかして写真に収まってしまうような人かもしれない。でもただなんとなく、ブレブレの写真たちを前にして僕はそんなことを思ってしまった。

そのイベントが開かれたのは2002年ごろだったのではないかと記憶しているけど、何年か前に調べてみて、ナナオさんがすでに亡くなられていたことを知った。とても残念な気持ちになった。あのとおりの仙人みたいな風貌の人だから、100歳ぐらいまで生きるんじゃないかと勝手に想像していたのだ。

もうナナオさんに会うことはできないけれど、たった一度でもナナオサカキさんに会うことができたというのは、密かな僕の自慢になっている。あるいは、「その記憶は20年近く経った今でも、僕の心を少しだけあたためてくれる」と言った方が近いかもしれないな。

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