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春が来るとかお構いなしに人は死ぬ。だから私は好きなことして生きていく。

新学期を控えた昨晩。
祖母がコロナで急逝した。

気の強い祖母だった。
ASDの気を持つ旦那(私にとっての祖父)とはよく喧嘩というか言い合いをしていた。

私は大学時代、障害特性からあまりバイトもできず、講義もあまり行けてなかった(2年生からは通信制に切り替えていて、ほぼ引きこもりのような感じ)だったので、見かねた祖父母が農業の手伝いに誘ってくれた。

夏と秋、絹さやの収穫と選別の仕事。
太陽の下、身体を動かしているのは好きだった。
コツコツやるのは得意だったし、自分のペースでやれるし。

私のいとこ達は皆優秀で、大学やら就職やらで各地に散らばっていて。
私は親に買ってもらった中古車を乗り回してじいちゃんばあちゃんに毎日会いに行っていた。

あの、夏と秋の数年間。
名目上は大学生、でもほとんどニートな私は、どの孫よりじいちゃんばあちゃんとずっと一緒にいたと思う。

身内の間で働いていただけだから許されることも多いけれど。

でもあの数年間があったから、私だってやれることがある。ってのが根底に自信となっていた。

祖母は晩年、認知症を患っていた。
何度も同じことを訊くことはあるけれど、最期まで孫である私のことを忘れることがなかったのは救いだった。

数週間前に、私のことすら忘れてしまった夢を見た。

大学の頃に私は社会福祉士になるため福祉のことを学んでいて、通信のレポートを書くために読んだ本で、今でも覚えている印象的な話がある。

認知症というのは死に向かう上で家族を悲しませないためになるのだと。
今までと同じ「おじいちゃん」「おばあちゃん」であれば死んでしまったときに深い悲しみを背負わせてしまう。そうならないために、少しずつ覚悟をさせるために、今までとは違う別人になってしまうのだと。

医学的・科学的に言えば、「非科学的」な話なのだと思う。
でも私は当時この物語を信じたかった。でも自分が遺族となってしまえば感じることは違うのかもしれないなぁ、どうなのかなぁ。と思ったことをよく覚えている。

今回死因はコロナが原因で、そういう意味では突然だったけれど、
どんどん弱って小さくなっていく祖母を帰省のたびに見てきて、「これが最期かも」と思ってきたので、別れに後悔はしていない。

いろいろな向き合い方があるということ

今回、一度は父と叔父(祖母から見た息子たち)が見舞いに行って濃厚接触者になって、その後祖母の容態が急変したということで、私たち孫は葬式に参列せず、ごくごく小さな家族葬となる。

私は幸運なことに、ここまで身近な人の死をこの歳まで経験したことがない。

覚悟をしていたとはいえ、泣かないで仕事に出勤する自分。
どうなんだろうかと思っていた。けっこう平気なのか私。

ただ、今日は葬式やるかやらないかで気が急いていたというのもあるが、一日中動悸がしていた。出勤途中のバスで、頓服として漢方を飲んだくらい。

グリーフという言葉がある。「悲嘆」「深い悲しみ」をあらわす言葉だ。
その中には喪失感から抑うつ症状になったり、メンタルの症状はもちろんとして、私のような身体症状もあるらしい。

仕事中、笑ったり、帯状疱疹になった先輩を気遣ったり、いつもより意欲的に仕事できたりしていた。でも、身体は正直だ。

ADHDだからADHDが強くなっている。でも仕事に穴を空けなくてよかったかも、新学期だし。

葬式をこの目で見られないこと。それは物理的な死と向き合えないということだ。死んだことをこの目で実感できない。

目をそらして月日が経ち、時間がやっと死を受け入れていくのだろうな。

そんな日。4月の始まりとともに、水戸市の桜の開花の便りが届いた。
私は桜が咲いたらきっと毎年思い出すんだろうな。

先日桜に関するツイートで、これから桜を見られる回数を数えるとそんなに多くないんだから、花見は全力で行けというような内容(意訳)を偶然見かけていた。

私が茨城に単身出ていくときに、
心配した祖母がイタコに見てもらおう(占ってもらおう)と言って、一度見てもらったことがある。

私自身はイタコを信じてはいないんだけど、
ばあちゃんの気が済むならまあ……としぶしぶついていった。

イタコ寄せの、盲目のおばあさんが言うには、
その方角(茨城)は1、2年で帰ってくるにはいいけどそれ以上はあまり良くない方角だよ。ということだった。

その後コロナが流行って、何年も祖父母には会えない時期が続いたけれど、
ばあちゃん。私は茨城に来てよかったと思ってるよ。

これからも毎年桜もネモフィラもコキアも見て、月日を感じながら生きていくよ。

長い旅路、お疲れ様でした。
またね。

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