1ヶ月、考えてみたら


最高のアルバムが出たのでその話をしたいけれど、どうしてもこの話に私なりに一区切りつけておこうと思って書きます。
まだ言ってるの?って人にはとてつもなく退屈で不快な思いをさせると思います。

支離滅裂だし前回と似たような内容かも。
それでも自分の考えに少し踏ん切りがついたので。



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差別にはNO

事務所には抗議する

謝罪が欲しいわけではないけど、なんらかのリアクションはあればいいな。ないだろうけど。
謝ってくれたら許すとか、声明出さないと応援しないとかそんな上から目線の話をしたいわけでもない。
今回ここまで大きな話題になった事をどう思ってるのか知りたい。

反対意見も擁護の意見もたくさん見た。
自分の勉強不足を自覚した。

構造の話をする人と、感情や解釈の話をする人で分かれているからきっと分かり合えないなと思った。

差別は感情の話ではなくて構造の話だというのを見て、思い出した本がある。

ナムさんも読んだらしいよ


こんなセリフがある

実際のところ幼いキム・ジヨン氏は、弟が特別扱いされているとか、うらやましいとか思ったことはなかった。だって、初めっからそうだったのだから。

これだと思った。される側も、する側も、そういう環境で育ってきていたらそれが普通で、まさか自分が差別してるなんて、されているなんて思いもしない。

男を産むのが当然で、女は学も夢も諦めて男のために生きるのが当然だった時代があった。


そんな世の中をこれでもかと詰め込んだ本。だから終わり方がなかなかの地獄。めちゃくちゃ面白い。この小説は男たちにとって怖い本かもしれないと解説で書かれている。


すでに読んだことはあって映画も見てて(あのユミヌナが主演してるので是非見てみてください)今回読んだのは2回目だったけど、より心に沁みました。解説まで読んで、著者の切実な怒りというか強い想いが伝わってきた。



こんなに頑張ってくれてるのに。点滴してまで準備してくれた彼を悲しませないで。強い言葉を使わないで。言い方に気をつけて。彼が傷付いたらどうするんだ。まだ言ってるの?せめてソロ活終わってから抗議してくれ、ソロ活の邪魔しないで。騒いでるのは日本だけ。誰が見てもアウトな内容ならまだしも。

今まで散々消費して、セクハラコメント残してプライベート侵害しといて傷つけられたら抗議するなんて、そんな彼らに謝れなんて言えないっていうのも見て、一瞬「確かにな」ってなったけど、それは別問題としてやっぱり事務所が対応すべきところで。もちろん自分が何もしてなくても同じアミとして無視できない部分ではある。

でも結局、これら全部トーンポリシングだよね。
差別を擁護する理由にはならないよな、と。

言い方が気になるなら、傷付いて欲しくないなら別の方法を考える。消費するばかりが嫌なら、体調崩すほど頑張って欲しくないならそれはそれとして事務所に抗議すべきところでは?インスタ見たら海外の方めちゃくちゃコメントしてるし。アジア女性を揶揄したABGと言われて日本人が騒ぐの当たり前だし。騒ぐと言う表現も嫌だけど。

急に騒ぎ始めたとか、差別にそんなに反対するなら今までもいろんな差別に声あげてきてたの?とかもよくわからない。今までだったら気にならなかったことでも、推しをきっかけに差別を知って声を上げることのなにがそんなにダメなの?何も考えずに全肯定して嫌なら聞かなきゃいいというより、少しでも興味持って勉強してそれから是非を話す方がよっぽど建設的。マイノリティは声を上げたらいけないのか。というか差別に声を上げてる方がマイノリティなのもまた地獄。


だからSNS上で抗議するのはやめた。もちろん誰かが考えるきっかけになればいいけど、そんな可能性は諦めた。こちらが消耗するだけだから。これを機にSNSから少し離れたら心も楽になった。でも事務所にはメールする。そしてweverseには愛してるよとメッセージ送ってる。愛はちゃんと伝える。応援と抗議は両立する。


ただ本人に関してはとても楽しんでるのは伝わってくるので、アルバム出すことに前向きじゃなかったという話もあったみたいだけどきっと曲は気に入ってるだろうし、たくさんダンス動画あげてくれたり海外活動してくれたりというのを見てたら、3Dに於いては私は彼のマーケティング対象ではなかったんだなと思うことにした。

悲しいけど、自分の心を守るにはそうするしかない。


英語はわからないので翻訳に頼った結果です。
もうちょっと細かいニュアンスまでわかるようになりたいな。

私はまだ子供の頃からそのポップスターのイメージが頭に残っています。そして、私はその素晴らしい雰囲気を放ちるクールな男になりたいです。

当時のジョングクはジョングクで、どういうわけか今の私になりました。すべての判断を下しているのは、まさにこの瞬間の私です

歌詞はただの歌詞で、画像は画像です。彼は、その普遍性のためにラブソングを選んだが、人々はそれらを自伝として読むべきではないと付け加えた。



耳を塞いだのも見た、ラップ前で曲を止めてくれたのも、SNSに一度もあげてないのも、何か意味があるんじゃないかと思ってしまうほどにはまだ私の中の彼らに夢を見ていた。

でもその後普通に配信でラップ口ずさんでたし、それとこれとは分けて考えてるのかな。歌詞はただの歌詞?曲に罪はない?そうなのかな。それとも何も考えてない?だったらそれはそれで悲しいな。



どっちが悪いとか正しいとかもしかしたらあるのかも知れないけど、私はこういう出来事をきっかけに勉強することができた。

そして一貫してずっと思ってることは、いかなる理由があっても差別を無かったことにするのは違うだろうということです。

そもそも差別は「あった、なかった」という話ではなくて「そこにあるもの」というのも見た。

好きな漫画のセリフがあって。前にTwitterにも引用したんだけど

“ミステリという勿れ”より


まさにこれかなぁと。差別は目に見えないものだから難しい所ではあるけど。
今回踏まれたと思った人や過去のトラウマを思い出したりした人がいるとして、私はそうは思わないという感情やABGって今はいい意味で使うんだよ!という言葉で踏まれた事実がなくなるわけではないだろう。なかったことには出来ないだろう。

年齢や性別や容姿、肩書を本人が武器としてポジティブに使うことと、周りが勝手にブランド化して楽しむのとはきっと違うんだろうな。

ちょっと逸れるけど、私がいつも他人の苦労を美談にするなと言ってることももしかしたらここに繋がるかもしれないなと思いました。



差別に中立はないというのも今回知った1つです。

すでに傾いてるシーソーの真ん中に立ったとて、そのシーソーが水平になることはないのだよ、と。
つまり真ん中に立った(中立を表明した)時点でマジョリティに加勢した事になると。面白いなと思った。


いろんな議論があって良いし、何も思わない人がいるのもいいと思います。
取捨選択は自由ってJKも言ってたね。その通りだと思う。



それでも、私は絶対差別なんかしないと思って生きるより、誰かを傷つける日が来るかもしれないと思って生きていける人でありたいです。



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