アナウンサーから見る言語史

さて、私は全くアナウンサーに詳しいないんです。いきなり何言うとるんやと思われそうなんですが。いや全く。

しかしですな、辛抱して読んでもらえたらとおもうんですな。まあやはり詳しい人らからすると実に物足りないでしょうが、一度吐き出しておきたくなったわけです。全く恥ずかしい人間の性ですな。

というわけでして、非常に端的なエッセンスしかないような話になるのですが、20、30年ほど前に日本語というのはまあバージョンアップしたわけです。節が柔らかくなったというのかですな、実はもう少し前からそういう兆候はあったんでしょうが、今でいうインターネットのように人が使い出したのは20、30年前でしょうな。

これを流行らせた最大の要因はおそらく当時のお笑い芸人の人たちでしょう。まあ根拠はないわけですが、彼らがフリートークという形で誰にでも使える新しい言葉を持ち込んだ軸だったのではないかと私は思っとるわけです。もちろん他にも様々な軸はあったとは思います。音楽なんかもですな、今の音楽というのは日本語の節が柔らかくなったお陰で昔より随分幅が広がったように思いますな。それでも音楽のプロの人は英語の方がまだまだ幅があると今でも言わはりますが、それはまた奥深いプロの世界の難しい話になるでしょう。

今回は20、30年前に新しくなった言語史、その中で取り残された人たちがあるという話なんですな。実はこれが冒頭のアナウンサーの人たちで、彼らは今でこそ彼らも幅が広がった日本語を使いますが、当時彼らには足かせがあった。あるいは彼ら自身のポリシーもあったかもしれませんな。

アナウンサーちゅうのは、せっかく新しい日本語が出てきても、そんなだらしない日本語を使うなと見ている側つまり大衆が言うわけです。それを言われると彼らは使えまへんな。まあ端的にいうとそういうわけです。今から考えると当時のアナウンサーちゅうのは随分な分からず屋に押されてしまったとでもいうか、今でも原稿読みの上手アナウンサーちゅうのを細かい人は言いますが、確かに昔の人で逸見さんなんかはめちゃくちゃ上手い、ああこれが名人かと私も思いましたが逸見さんと他の人の違いは何となしに分かっても、はっきり言うて上手いか下手かなんか素人には分かりませんな。私には分かりません。冬木さんでしたかな、ちょっと名前はど忘れしましだかそういう素晴らしいアナウンサーもおらはったようですが、しかしまあそういう厳しい意見があって20、30年前に技術の波にいまいち乗り切れなかったんではないかと私は思いますな。

まあそういうにっちもさっちもない、もう少し調べろと怒られそうなですね、転換期の非常にスモールな話を小話として少ししてみたかったんですな。いや、まあ見た人おられましたら、どうもご清聴ありがとうございました。反論付け加えなどらありましたら、コメント欄ちゅうものがありますので、そちらの方に良かったら書いてみてください。それでは。

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