専業主婦がダメな人間になる理由


批判してくれる人がいない

自分の方法論が間違っているとき、特定の相手のリアクションに激情することで鬱憤を晴らしてしまう。また専業主婦は意見を共有するので、鬱憤を晴らしたアイツはおかしいという情報ばかりを共有しておりその輪の中から抜け出せない。また抜け出さないことが心地よい。また多くの場合男性側、夫は責任感を培ってきており「女性に優しく」「男性は同性間で情報共有をしない(特に異性の不満)」などの性質と相まって、そういった状況を背負い込んだり悪かったと言ってくれることも多い。そうする内に、“正しい”専業主婦が誕生する。

また自由恋愛時代に女として20や30まで過ごすことの異常性を認識していない。昔の言い方でいうなら自覚のないボンボン息子ようなもので、なおかつ専業主婦という職業に責任の所在があまりない。人のせいにできる。

また例え自由恋愛市場を向けだしたとしても。

“女”という性別は自由恋愛市場を向けだせなかった人間の中に物的成功者が存在してしまう。それも特大の成功者がいる。

また“女”には自由恋愛市場を向けだせなかったけど生活出来ている層がボリューム層として存在する。

自由恋愛市場の先にそういった状況が存在することを想定することも、またその異常性を訴え出ることも大人になった人間には極めて難しい。やがて飲み込まれる。

“女”になる。

“女”になったほうが楽なのだ。

人は楽を目指す。

“女”とは社会主義システムが具現化したようなものに等しい。許され、不満が言え、食べられる。


代価は生む身体。

でも、それは果たして代価なのだろうか。そこにも思想の格闘は存在する。本来、思想家とは女がなるべきものなのだろうと思う。素養はそちらにある。だが豊かさやインフラを捨ててまで思想家になるものは残念ながら存在しない。ある人によると有名な哲学者は極北に多いという。


妻が稼いでくれない子育てに参加してくれないとは言えなくても、夫が稼いでくれない子育てに参加してくれないという声の通りが良すぎる。そういった環境の責任性のなさにも、誰も気付いてないし気付いても改善する意味はない。改善すると損をするから。そしてどんな人間でも最終的にそこに合流するように、“女”が設定されている。既に生まれて生き方を無難に固めた女が、結局圧倒的にそこに向かって走っていく。“女”とは端的にいえばそういう人間になっていくことに過ぎない。自由恋愛山から湧き出した“女”という川の流は、全てそこに流れていく。


追記.

また、結婚に際してパートナーの成功したあとの資本的生活にただ乗りできる。パートナーにはそこに至るまでの研鑽や苦労があるが、専業主ふにはない場合が多い。自由恋愛環境に愛され、両親に女の子だからと様々なものを与えられ、資本的生活まで人の力でいきなり達成できる。そして大人になったとき女性には既に権利があり、フェミニストが開拓したあとの時代を大人として豊かな生活の中で主張しながら歩み始める。平成以降やばい場合はこういうバックボーンまでついてくるようになったのではないかという気がする。

追記2.

感情という暴力で全てを解決できると思いこんでいる。恋愛需要絶大性別に生まれた結果、感情という暴力で全てを解決できると骨身にしみて考えている。いやあるいは考えてすらいない。クソ上司みたいになる。叱れば勝てる。専業主婦を養うような旦那は異性に優しい。もしかすると浮気者かもしれないが、ほぼほぼ優しい。恋愛中も家の中でも、感情で全てを思い通りに動かせる。

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