商機はどこに?――売れないデジタルと、まだまだ買われるアナログ

岡田斗司夫によると、デジタルコンテンツや情報は「無料」だと気付かれてしまった、という。確かに、MMDユーザーモデル的な供給と需要の関係に、有料をねじ込むのはとても難しい――私の経験からしても。

無料で配布される中には、プロ顔負けのクオリティのコンテンツすらあるわけで、相当に高品位であるか、あるいは知名度の高い題材でないと、もはや認めて貰えない。ましてやそこに、カネを払う付加価値などが生まれる余地はない――だって、タダで手に入るのだから。

例えば、VRChatのアバター販売は大手も参入するほどのブルーオーシャンらしいのだが、その実、一体どのくらいのユーザーがアバターの需要を感じているのだろうか? 衣服のように他人とは違う個性(アバター)を、TPOに合わせてユーザーは纏うものだとは言われるものの。同様に、VTuberになりたがる人よりも、VTuberを見守る側を選ぶ人の方がやはり多いだろう。

ひょっとすると、これからのアバターは「買う」よりも、自作する「体験」へとシフトしていくのではないか? blenderとUnityという無償ツールは既にある。できあがりがショボかろうが、自分で作ったものはプライスレスだ。一から作るのではハードルが高いと思われるのならば、VRoid HubVRoid Studioというサービスが既にある。一流を競うのは、果たしてカスタマイズなのか、それともスクラッチなのか?

無料供給が当然とされるデジタルデータがある一方で、ソシャゲのガチャに何十万とつぎ込む人々がいる。ガチャで手に入るキャラクターはやはりデジタルであるから、本来ならば「無料」扱いでいいはずだ。にもかかわらず……

この商売は、一部の感覚が麻痺した人のおかげで成り立っているのだろうか? 私見だが、おそらく、1%の確率を割るような極レアを引き当てた時の優越感=脳科学によるところの「自分より下位のものと比べる下方比較によって、報酬を感じる脳の部位が活性化」に浸る為に、ガチャを引く行為そのものに中毒になったのではないか。つまり、極レアを引けた自分は、引けなかった者(劣った者)を報酬に感じる。

触ることのできないデジタルに代わって、物理的な存在の「グッズ」や、あるいはコンサートといった「経験」には、今でも、代価としてのカネを支払う意義や価値を認める人が多い。

これを察知しているからこそ、VRの業種が新しく興ったりしたわけだ。まだ実用的とは言いがたいVRゴーグルを使用の度に毎回消毒して、一度に体験できる人数が限られているのに、場所代の高そうな駅前の一等地にそうしたイベントスペースを設置している。

そういえば、ガンダムに興味があるとは到底思えない実妹が、子連れで山下埠頭をわざわざ観光しに行った。かように、巨大な立像を見るためだけに訪れる人から入場料を穫るビジネスが成立しているのだ。このサービスには、あらかじめ、立像を建設する先行投資が生じるのに。

映画はかなり旧い「体験」ビジネスの一種に違いなかろうが、昨今のコロナ禍のせいで苦戦している。動画配信サービスの乱立もある。こうなると、大勢が単に受け身で動画鑑賞をするだけであれば、代替の動画配信を視聴することで済んでしまうとも言えるだろう。オンラインでリンクした人同士が同じ動画を鑑賞する方法も提供されつつある。

デジタルにもNFT(Non-Fungible Token)が登場して久しい。しかし、理想と現実のような乖離がここにも存在し、大衆の消費欲を煽るようなデジタルデータにNFTが採用された例はまだないと言える。

「体験を売る → ゲーム」という図式は、目的にかなっているように思える。しかし、ゲームを消費するために要する時間が問題になりつつある。似た例の、映画を早送りで見る若者、というわけだ。

だから、ゲームの実況配信を見ればゲームそのものを遊ぶ体験は肩代わりできる。特に、誰がやっても筋道が同じになるゲームであれば、他人が遊ぶ様子を覗き見することで充分だろう。

娯楽の種類が今日のように豊富にあるのなら、プレイヤー一人一人の時間を独占できるような娯楽の王様といったものは、もう存在しにくい。

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