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思考が消えたら、こうなります。~PNSEという奇妙な生き方~

私はそのとき、ただひたすらに、こう言っていました。
頭のなかに流れる思考を静めようと、四苦八苦していた頃のことです。

「考えはいらない。直観を信じると決めたんよ」
「考えが流れるってことは、いままさに直観が来ているんよね。黙ってて」
「考えも言葉もいらない。いらないったらいらない。黙ってて」
「黙 っ て て」

頑固というか、真面目というか。思考に対して、いや、自分に対して、もはや完全に信用を持っていませんでした。もっと確かな、深いものとつながろうと、厳しく激しく闘っていました。

長い年月そうしていたら、ある日、ある瞬間、あきらめたかのように、思考につながる脳神経回路がブツっと途切れたのです。

世界はシーンと静まり返り、目に映る光景はキラキラと光が増し、(なにこれ?)というひとりごとの言葉は頭ではなく、胸のあたりから遠くくぐもって聴こえました。何もかもがリアルな存在感を増していきます。

自分がここにいる、という感覚が突き上げてきます。
ああ、世界はある。ありありとある。
私がいる。ありありといる。
なのに、そのどちらも同じことだ。そのどちらも、幻だ。
だけど、美しい。涙がとまらない・・・。
それは私の探求の終わりでした。
もうどこにも何も探しに行かなくていいのです。

あれから、数年。
頭のなかに思考の声がないまま、ごく普通の住宅街で、ごく普通にオカンをやってきました。脳神経のつながり直しなのか、ときおり不可思議な体験はありましたが、いわゆる悟りというような自覚はなく、思考の声がないだけの日常が続いています。スーパーに買い物に行き、PTAや町会のお手伝いをし、パートタイマーとしてトラックの助手席に同乗してあちこち駆け巡りました。(肉体労働は楽しい!)
こんなごく普通の日常ですが、内側を見るとやはり、思考がないという在り方は奇妙で特殊であります、たぶん。
その在り方をご紹介してみます。

直観

思考はまったくありません。あったとしても一回2~3秒ぐらい。すぐ途切れて、いま・ここに戻ります。
思考の声の代わりに、直観を頼りに生きています。
ここはちょっとていねいに言及してみたいと思います。
私が実際に行っているのは、おなかに意識を向けること、おなかのなかにある神経に向かって、意識をシュッ、シュッと伸ばすのです。
やってることはといえば、それだけ!

これに対しては、特に直観の声が返ってくるとか、そういうことは無いんです。無いのはわかっていて、やっています。パソコン風に言うと、接続の有無を確認し続けている感じです。
さらに正確に言えば、内臓まわりにある自律神経を意識でなでている…のだと思います。同時にうっすらと、全身の細胞の反応を見ている気もします。

そしてそのことで意識が頭の位置ではなく、胸のあたりへ降りている結果を生んでいます。「接続確認」が主で、結果が「意識の位置の降下」です。
胸のあたりに自分という意識の中心があり、そこからおなかへ細い意識の手をシュッシュッと伸ばしています。一日じゅうです。
このことにより、意識は常に頭ではなく上半身にあります。頭はからっぽです。文字通りです。わ、悪口じゃないぞ。

直観というものは、実際には五感のわずかな変化で気づきます。
いま目で見たもの、ずっと前からそこに置いてあったもの、何も連想できないごく普通のもの。例えばカッターナイフ。ノート。手鏡。それを目に止めた瞬間の、視線のわずかな違和感。小さな声で「これ」と言われたような。それに従うのです。手に取ります。どこか意識しやすい場所に移動して置くか、カバンに入れるか。大切なのは、そのごくごくわずかな違和感に気づくこと、理由や意図を一切追わないこと、わからないまま従うことです。

例えば、買い物に行っていて、なぜか歯ブラシが目に付きます。特にニーズは思い当たらないのですが、サインに気づけば迷いなく買います。
帰宅すると娘が「明日学校で歯科検診なの忘れてた、歯ブラシ持って行かなきゃ」と言います。
ジャスト、その日です。
「さっき買ってきたよ、新しいほうを持っていきなよ」というわけです。
実話です。毎日がこうしたエピソードに満ちています。

思考が消えていないと「これって何?どういう意味なの?」と追ってしまうでしょう。そうすると、当然左脳の思考神経回路が動き出して、追っていくべき右脳の直観回路がかき消されてしまうのです。
私自身がやっていることといえば、ただ気づき、従うことのみ。だから振り返ると「生きてきたのは私ではない、もっと大きな直観の意識」だと、しみじみそう思います。

この直観の意識の圧倒的な正しさとつながりの広大さだけは、誰かにもっと伝えたい、みんなに知ってほしいと、強く思います。
この大きな意識は神ですか、仏ですか、と聞かれれば、
私は「人間という叡智の集合意識」だと答えるでしょう。

人間はとほうもない愛の叡智の、自然という神経の最先端なんです。
左脳意識に同化しすぎて、見失ってしまっているだけ。
左脳は人間意識です。左脳だけ、です!(現代社会を生き抜くために、がんばってくれているのです)
ツイッターにも書きましたが、左脳意識が過剰すぎて、いわば、指であることを忘れて、爪だけになってしまっている。

自分がいかに美しい爪でいたいか、とか
いかにだめな爪であることに傷ついているか、とか
どうすればさらに良い爪になれるか、とか

そういう思考に寸断されて
自然という最高の身体の、最高の神経の、美しい指先であることを忘れてしまっているんです。それだけなんです。
指だとわかれば、指から手、腕、身体と、さらに偉大なものに自分がつながっていると自然にわかります。
どこにも何も探しに行かなくていいんです。他の何にもなろうとしないでいいんです。より良くなる必要もないんです。
ただ、爪ではない、指だとわかれば。
ですから私は、上半身の、おなかの自律神経に意識を向け、身体の感覚とともに今・ここに在ることで、「爪としての」思考を止め、指として在ろうとしています。し続けているのです。

感情

怒りもたまにあります。
悲しみもあります。
感情はいきいきと身体をめぐります。

先日、家の前の狭い道で、道端に寄って車に道をゆずったら、何を思ったのか、身体に当たりそうなスレスレのところをぶっ飛ばして行きやがりくさりました(丁寧語)。
怖いと感じるとともに、カチーンときて「この、この、カスがゴミがぁ!」と思いました。3秒後、「かすがごみが」という言葉がみやびだなぁと感じてしまい、春日~、御身が~と鼻歌で歌って楽しくなり、嬉しくなり、自宅のドアを開ける頃にはぜんぶ忘れて幸せにニコニコしていました。

大丈夫か、こいつって、いま、思ったでしょう?
思いましたよね?
私も思う。よく思う。大丈夫か、こいつ。

PNSEの最大の特徴は、何もなくてもベーシックに幸せ感が高いってことらしいです。オカンの体感では、幸せ感というのは、意識がおなかと接続していると無限に上がってくるものです。細胞のぜんぶが、勝手に幸せ感に満ちるのです。
おなかが暖かいストーブであれば、それに手をかざしたら暖かいに決まってる、でしょう?
そんなふうにとても物理的なものに感じます。

思考は、暖かさに水をかける存在です。思考は世界の難しさや厳しさをピックアップして感じ取り、それを生き抜くのが使命だと思いこんでいます。そういう器官なんです。
幸せ感はそこにはありません。そこに幸せ感を求めても、実際に感じ取ることは難しいでしょう。代わりに、誰かに勝ったとか、一位になったとか、もう負けはしないぞとか、自慢できるだろうとかいう、相対的な思考にたどり着きます。興奮はあるかもしれませんが、それは幸せ感とはちょっと違うと思います。
それらはいつも売り切れ中で入荷待ちの商品か、賞味期限の短い代用品です。求め続けるしかない、興奮剤の一種です。

怒りや悲しみは、それ自体が美しくて、細胞を駆け巡り、あまり味わう間もなく消えていきます。感情は流れ星のようです。恐れることも避けることもなく、あらあらあら、という間に終わっていきます。
めったにありませんが、あまり苦しいなら「愛を選ぶ」か「愛にスペースをゆずる」と念じます。しばらくの間、愛におんぶしてもらって、どんな結果になるか楽しみに生きることになります。

いま感じていることが、自分の次の一歩の地面のタイルになる、としたら。憎しみや苦しみをくり返し感じるより、愛にスペースをゆずってしまう理由になりますね。憎しみ色のタイルを踏むより、愛が香り立つタイルを踏んで歩きたいじゃないですか?

主語

私、という主語はかなり薄れて消えかけています。
生命、という主語がしっくりきます。
または「・・・」というふうな、無音の主語。

けれど人生はいきいきとおもしろく、色鮮やかです。
いやなこと、つらいことは思い出しもしません。

逆に、「大きな意識」の苦しみを感じることがあります。
ちょっとオカルトじみてしまうかもしれませんが、自分にとって体感する真実なので、書きます。「大きな意識」は「現代人」の在り方の終わりを模索している気がします。ノンデュアリティ、つまり個となった「爪」としてしか自己をとらえない在り方の、終わり。

この世に在る方々が全員、自分は大きな意識の「指先」だと気づき、幸せに気づき、そちらへ耳を傾けて動き出したら。思考の壁を打ち消し、自己のなかに自己のように花ひらく自然を見て、新しいバランス、新しい社会を創り始めたら。すごい未来になるでしょうね。受け身の人は一人もなく、全員が自分のこととして、自分の夢として動くんです。罪悪感ではなく、幸せを感じながら。

たぶん、その可能性をひたと見つめて、大きな意識は働いています。
それゆえの痛みを、かすかな焦りを、ときおり遠くに感じます。
それは私のなかに深い愛を、大きな意識と未来への愛をかきたててくれます。「あんまり役にはたたんと思うけど、オカンなりに、がんばったるやん。一緒にがんばろなー? ぼちぼちな? えへへ」

これがPNSEと分類される奇妙な存在の、日本在住の一人である(らしい)オカンの日常です。本当は他にもいっぱいいらっしゃると思います。なかなか出会えませんが。
今年はこの生き方を、できるだけ多くの方に、手渡したいと願っています。
以上です。長くなってしまいました。
お読みいただいてありがとうございました。

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