【言葉遊び空論16】タイギ語 ~反対語・対義語の極致~

 かつて 『の反対は憎しみではなく無関心』 というフレーズが 流行した

 修道女:マザー・テレサの名言として 人口に膾炙したようだが 実際に彼女が 発言した訳ではなく 教育思想家:アレクサンダー・ニイルの著作内に 記されている 一文との事である
 (参考:なんと!「愛の反対は無関心」はマザー・テレサではない人の言葉だった(°_°)

 もっとも ウケが良かった というのは事実であるが 同時に 巨頭オの怪物の如く 首の左右運動を ONせずには いられない者も 存在したのは 確かだ

 「それは ”進むの反対は眠る”や ”前”の反対は”目を閉じる”と 言っているようなものなのでは」
 「愛の反対が無関心なら 憎しみの反対も無関心でしょう」
 「どうして…」等々

 また 『ありがとうの反対はあたりまえ』 というフレーズも 知られている

 一説には 仏典「法句経」の一節(ひとの生をうくるはかたく、死すべきものの、生命あるもありがたし)に由来する とも言われているが これもまた 論争の的となった

 「”感謝”の反対は ”あたりまえ”には ならない」
 「”余計なお世話・大きなお世話”の方が しっくりくる気がする」
 「ありがとう ⇔ このやろう Q.E.D.」等々

 あらかじめ 言っておくが 本稿は ある言葉に対して その反対だと新規に説かれている言葉が 正しいか誤っているか を考察する意図は 全く無い

 上記の二例は 「左右」や「白黒」といった類とは 性質を異にする

 ことは 受け取る側の その言葉に対する 膨大なイマジネーションに 裏打ちされるが故の一説 いわば その人自身の価値観の確認作業である

 これまでの一般的な見方では、学習遺伝と対立するものとされてきた。(中略)
 それまでの考えでは、遺伝的に決まっているものは学習する必要がない、そうでないものは学習によって獲得する必要があるということであった。(中略)
 学習というのは遺伝的プログラムの一貫なのである。遺伝的プログラムにしたがって学習も行われる、と考えざるをえないのだ。

(日髙敏隆『人間は遺伝か環境か?遺伝プログラム論』より)
 デモクラシーとは何か。「民主主義だ」というのは答にならない。訳しただけだ。
 質問を変えよう。デモクラシーの反対は何か。
 多くの日本人はこの質問に「独裁政治」なんて答える。とんでもない。民主主義独裁ということだってある。
 (中略)
 中にはデモクラシーの反対は「軍国主義」なんて言う人もいる。
 デモクラシーには、平和主義のデモクラシーもあれば、軍国主義のデモクラシーだってある。スパルタなどは典型的な軍国主義のデモクラシーであった。
 (中略)
 語源的にデモクラシーの反対は何かというと、シオクラシーである。神聖政治である。

(小室直樹『田中角栄の遺言』より)
平和の反対は…戦争? 違う
平和」という(状態)の反対は…「混乱」という(状態)
では戦争の反対は?
戦争」という(手段)の反対は…「話し合い」という(手段)

(小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』より)
 死ぬということには二つの意味があると思うのだ。これに反して、そもそも生まれてこないということには、二つの意味がない。つまり、死ぬことによって失われるものと、生まれることによって生じるものとは、本質的にちがうような気がするのだ。
 そしてぼくは、の対立概念と考えるのは実はまちがいで、ほんとうは生まれてこないということこそが生の対立概念なのではないか、と思っている。

(永井均『〈子ども〉のための哲学』より)

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 簡単に ある言葉とは反対の意味の言葉を 一般的に 反対語もしくは対義語と 呼んでいる

 本来 単なる 国語教育等の 一分野でしかない この概念が 現代に至り 言葉遊びの性質を拵え 勢力を拡大してきた

 従来 説かれてきた 反対・対義の枠を 突き破り 新たなる反対・対義を 奉献する

 反対語・対義語という 名目でデビューを果たした 言葉遊びは 言葉遊びの「置換」的手法を 大いに展開させる事に ある程度の成功を 収めたと言っても良いだろう

 以下 本稿では 「言語遊戯的技法としての反対語・対義語」を 便宜上 「タイギ語」と表記する事とする

 

タイギ語には 大きく 以下の二通りの 様式が見られる

①改変的タイギ語

 「泥棒猫 ⇔ 犬のお巡りさん」 「赤の他人 ⇔ 白い恋人」 「半ライス ⇔ 全米」と言ったような 本来は 無関係である 既存の言葉同士に 反対・対義的な関係が 結びつけられる様式

 註釈すべき点として 例えば 前記「半ライス ⇔ 全米」における ライスと米は そもそも概念が異なっている(”米”はアメリカを表している)ものの 単一的な字義では 同じ概念を含む事から タイギ語関係として 結びつけられている

 こうした作為は タイギ語において 多く用いられている


レディ・ガガの反対ってミスター・ポポだよな?
●「フシギダネ」の反対語が「はっきりわかんだね」だってことに気がついてしまった
●『あばれる君』 ⇔ 『しずかちゃん
ガチホモの元ってゆるゆり

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 捉える側の 状況やイメージによって 反対・対義にあたる語が 異なる場合も 想定される

 「解凍」の反対・対義に 「冷凍または凍結」ではなく PC上のファイルに基づく 「圧縮」とする例が その一つであろう(※これはそもそも誤用であったという説もある)

 この 改変的タイギ語は 特に 語彙の豊富さと 語句への洞察が 強く要求される為か あまり その例を 伺う事が出来ない

 理屈上は 反対・対義となる 言葉を商標など 固有の名称として 一般に浸透させれば 反則技めいてはいるが 一応は 達成出来るであろうが


②造語的タイギ語

 「いきなりステーキ ⇔ 満を持してサラダ」 「コアラのマーチ ⇔ ゴリラのレクイエム」 「ワンコイン ⇔ ニャンコアウト」と言ったような 基となる言葉から 反対・対義らしくなるような 新たな言葉を 創造する様式

 ①の改変的タイギ語と比べても 遥かに その例は多く 一括りで タイギ語と 言った場合は おおよそ この②の造語的タイギ語が 主流であると 言えるだろう


ノーブラの反対語はイエスパンティーじゃね
●フレッツにありがちなこと
仲間由紀恵が由紀恵に寝返ったらどうすんの?
●「こどもちゃれんじ」の反対は「おとなぎぶあっぷ」でいいんですか

 さて この造語的タイギ語には ①の改変的タイギ語には 見られない ある傾向が 見て取れる

 それは 単語に留まらず 一節や一文そのものを 反対・対義化させるケースが 極めてよく目立つ という点だ

 これは 元々が それまで無かったフレーズの 創作であるが故の 個々の奔放な連想による 幅の広さが 影響していると 言えよう

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 タイギ語が 猛威を奮い得て 一世風靡をもたらしたのは まさに この造語的タイギ語様式の 賜物であると 言えるだろう



 タイギ語では その置換法則も 2タイプ存在が確認されている

 まず 「基の言葉の一部を反対・対義化する」タイプ

 一部とは 即ち 本来的な 反対・対義的な言い回しが 可能である部分という事になる(先の「フレッツ」「立派な犯罪」など)が 全体的な傾向を見ると このタイプは 決して多くない

 一般的な反対・対義において 「赤字・黒字」「長所・短所」「対義・同義」など 一部のみが 異なっている例は数ある為 全く問題はないはずだ

 にもかかわらず このタイプが 一見して 豊穣に恵まれないのは ややもすると ”中途半端”と 思われている節が あるからではないか

 この事情は 短歌三十一文字中 全く同じかなを含まない 同じ文字無き歌ヘテログラム)よりも 五十音全てを一度だけ使う いろはうたの方が 現在的に 生き残っている所からも 伺える

 これは 特殊な現象 と言っても 良いのかもしれない

 この事が もう一つの 「基の言葉を分解して各部を全て反対・対義化させる」タイプに 影響が及んでいる事は 確実である

 そして この二つ目のタイプによって タイギ語が 文章の領域にまで 勢力を伸ばし得たのは 明らかだ

 タイギ語は タイギ文と 呼べるほどにまで 昇格したのである

ダウンロード

(河原田瞳美『密閉シーツ』より)



 ところで

 タイギ語 特に造語的タイギ語の これまでの例を 目の当たりにした 読者の中には どこか 腑に落ちない心持ちを 抱く者も おられるかもしれない

 それは恐らく 種々の作例に対する 「もはや反対語・対義語と言えるレベルではないのでは?」 という感覚に 違いない

 実は これが タイギ語の 要諦へと連なる

 多くの場合 最も引っ掛かっているのは 「反対」 という点に ついてであろう

 先に上がった 「ワンコイン ⇔ ニャンコアウト」 と 「コアラのマーチ ⇔ ゴリラのレクイエム」を 例にとりつつ 本稿独自の解釈概念として 「反」と「対」 それぞれの関係から 見てみよう

 前者は 少々 ぎなた読みによる 変化球を仕込みつつ 「イン」と「アウト」は 反対の関係であると言える

 問題は 「ワンコ・ニャンコ」 即ち 「犬猫」だ

 「」の関係を 「一つの対象を二元的(二種類の視点)に捉える事」とすると 「陰陽」「善悪」「始終」などとは違って 明らかに 「犬猫」は この類ではない

 辛うじて 考慮し得るとすれば 長い歴史の中で 最も人間の生活と 馴染みの深い 二大動物という ”ペア”としての 位置づけである限りにおいて 「山海」「紅白」などに見られる 「」の関係 即ち 「二つの対象で一組を形成する事」と 言えるかもしれない

 それでは 後者はどうか

 「コアラ」と「ゴリラ」は 明らかに”反対”ではなく また 「犬猫」とも違って ”ペア”のイメージは希薄であり 「反」と「対」いずれの関係とも 到底 思えない

 それは後半の「マーチ(行進曲)」と「レクイエム(ミサ典礼)」にも 言える事なのは お解りだろう

 実は 世に知られる 造語的タイギ語の多くは 「反」の関係でもなく 「対」の関係でもなく それでもなお 成立している事になっているのだ

 全てでは ないにしろ 反対語でも対義語でもないはずの タイギ語は 存在している

 地球表面の 7割を占める 海面以上の割合と言っても 大袈裟ではないだろう

 では 何が 反対・対義であると 見なされ得るのか

 つまるところそれは 「反対っぽい・対義っぽい」というイマジネーション いわば 疑似的反対・対義 そして 対応させる語の適切さ に頼る他ないのだ

 冒頭で 筆者が 言った事を 思い出して頂きたい

 覚えていない?

 では おさらい

 筆者は 冒頭にて 「ある言葉に対して その反対だと新規に説かれている言葉」については 「受け取る側の その言葉に対する 膨大なイマジネーションに 影響されるが故の一説 いわば その人自身の価値観の確認作業」だと 説いた

 この事が そっくりそのまま あてはまる

 タイギ語にとって 重要なのは ”精密な形で反対である”事 などではなく ”反対っぽく感じ取れる”事と 言わざるを得ない

 そうは 言うものの 造語的タイギ語が 厳密に 反対語・対義語の体を 為していない例を含めて 示されているのであれば 結局 なんであるのか

 そこが 大きな疑問となるだろう

 あえて 類するものを 引っ張り出してくる とすれば それは 漢詩における対句

 対句は 二つの句の文字を 語格や意味を基に 同一の品詞で並列させる技巧である

 詩人:李白の 「送友人」(書き下し文)を見る

青山 北郭に横たはり
白水 東城を遶る

此の地 一たび別れを為し
孤蓬 万里に征く

浮雲 遊子の意
落日 故人の情

手を揮ひて 茲より去れば
蕭蕭として 班馬鳴く

 一・二句の「青い山々が 町の北に横たわり」「白く流れる川が 町の東をめぐる」(訳)と 五・六句の 「空に浮かぶ雲は 旅にさすらうあなたの心」「沈む夕日は 昔からの友人の私の心」(訳)が それぞれ 対句となっている

 対句は 厳密な反対の言葉を 選出するのではなく 色なら色同士 場所なら場所同士 心情なら心情同士 といったように 同カテゴリーの 言葉を並べるという 手法となっている

 この意味では 対義語とも ましてや 反対語とも 異なっているが その構成から 造語的タイギ語は その性質的に 漢詩の対句に 近似すると 判断して 差し支えない

 そう考えさえすれば 「コアラのマーチ ⇔ ゴリラのレクイエム」も 充分に 辻褄が合う

 これは (「動物名+音楽ジャンル」という具合の)対句技巧の 応用であったのだ

 結論として 造語的タイギ語の 大半については それは対義語というよりも 対句である と捉えた方が 正確だ



 2016年は タイギ語にとって 節目となった

 新視点を 認識せしめた と言っても 良いだろう

 ツイッターユーザー:羊の目。 このたった一人の手によって 余りにも多くの タイギ語が 短期間のうちに 創生され 反響を呼んだ

 「遊☆戯☆王 ⇔ 社☆畜」といった 改変的タイギ語の 良例から 「ハッピーターン ⇔ 不幸に一直線」をはじめとする 多くの造語的タイギ語 そして 「アンパンマン ⇔ 小麦粉」など もはや 力尽きたかのような 妙例…… にしても この数は 流石 圧倒せざるを得ないだろう

 その一方で わずか短期間のうちに およそ数年分に 及ぶであろう タイギ語の 生成は ”これにより タイギ語は もはや 芸と悪ふざけを 混同した 一発屋の如く 終焉を迎えたに違いない” と思わせるにも 充分すぎる程であった

 だが

 しかしながら

 当人 知ってか知らずか 今となっては 確かめようもないが ここに タイギ語における 重大な 示唆が 導き出されていた

 「お~いお茶 ⇔ ヘイヘ~イ、コカコーラ」を見る

 お解り通り 「お~い」も「ヘイヘ~イ」も 性質としては 全く同一であり 「お茶」と「コカコーラ」は 反対の関係ですらなく 両者は ただ単に 異国語の 似た事柄を 並べただけ

 ところが ここには あるのっぴきならぬ効果が 秘められている

 「Apple Polisher」という英語

 「リンゴを磨く」という意味であり これは日本語で言う所の 「ゴマを擂(す)る」と 同義である

 「リンゴを磨く」「ゴマを擂る」 このように並べると あたかも これまで 例示を重ねてきた タイギ語に さも似たり 即ち ここでの「お~いお茶」「ヘイヘ~イ、コカコーラ」に類した 表現ではないか

 いや 更に 重大なポイントがある

 これが 類義語・同義語である という事実だ

 これは従来の タイギ語では 勿論の事 対句にすら 見られなかった様式であろう(一方 ことわざには この種の表現は多い 「猫に小判 = 豚に真珠」「糠に釘 = 沼に杭」など)

 タイギ語を 徹した果ては その実 類義語・同義語となる

 これは 曠古の発見とも 言えるだろう



 「悪質な犯罪」と言うが それでは反対となるであろう 「良質な犯罪」とは一体何なのか と考えあぐねいた末に 「立派な犯罪」である事に 到達した経過は 記憶に新しい

 そして まさにこれは 表面上 対義的でありながら 類義・同義という性質を 持ち合わせている

 「残念」と「無念」も 同義でありながら 対義的に見える

 また 極めて 稀なケースでは

 かつて バラエティ番組:平成教育委員会で 「無敗」の反対を 「全勝」と 堂々答えた 解答者がいた

 造語的タイギ語に 見られた 各部(ここでは各漢字)それぞれを 共に反対させた語として 想起したのが 理解出来る

 しかし よくよく考えるとご理解頂けた通り 両者は ほぼ同義となってしまい 解答上 不正解である(正解は「全敗」)

 タイギ語は 如何に 最遠たる 対の地点を 目指そうとも その到達点は スタート・リスポーン地点であったという 円周上に沿い 周回していた 一連の歴史であったのだ

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 「同かつ対」とでも 言おうか 近年では 両者融合のタイギ語が 多く発見されつつある

 「好天 ⇔ 荒天」(こうてん) 「名言 ⇔ 迷言」(めいげん)など ”同音でありながら意味は反対”という 新たなフィールド 「同音対義語」の存在も 記憶に新しい

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 単語で見た場合は 対義であるが ある言葉を加える事で 同義化するという 興味深い例も 確認される

 「入る」「出る」は 対義であるが 例えばこれに 「ノイズが」を 加える事で 「ノイズが入る」「ノイズが出る」 いずれも 「ノイズが映る」現象を指す

 同じであるが反対になる

 反対であるが同じになる

 タイギ語は 「同-対」共存の域に 達したのだ



 「離」という漢字は 「はなれる」の意味を持つが 同時に 「つく」という まるで逆の意味も含む

 その「逆」という漢字にも 「さからう」「むかえる」という まるで 正反対のような意味を 共に有している

 乱の字はみだれた糸を両手で分けるさまからできたとされ、「おさめる」が第一義。『書経』皋陶謨の「乱而敬」は「おさまりて敬あり」と読む。
 やがて、みだれた糸そのものに視点が移り、「みだれる」の意で用いられるようになった。漢和辞典の「乱」のつく熟語はすべて「みだれる」の意であって、この字に「おさめる」の意味があることを知る人はまずいない。
 このように、一字で正反対の意味を持つことを「反訓」という。

(岸田知子『漢語百題』より)

 「面黒い」という 単語が実在している

 一見して 「面白い」の反対か と思われるだろうし 確かに その通りではある

 だが この言葉には 「”面白い”の対義」であると共に 「”面白い”と同義」という 正反対の意味を 共に宿しているのだ

 こうした 一語で反対の意味を持つ類では 「適当(→妥当or雑)」が よく例として 挙がるだろうが こうした例は 多くの場合 前後の文脈で その意味が判断され コントロニムと称される(「rent」で貸す・借りる など英単語には 割かし目立つ)

 「同-対」共存は 単語の文脈的傾向から このように既に 確認されていた

 それが時を経て ついには タイギ語という技法を通した 言語遊戯観の発展によって 単語のみならず 文単位による観測も 可能となった

 当初は 相容れなかった マクロの相対性理論と ミクロの量子論が 超弦理論で 結びついたかの如くである

 では

 「同-対」共存の先は あるのだろうか?

 プラスとマイナスで 0を成したかのような 即ちは 同も対も無い 悟りに似たる境地

 そこには 意味上の関連性(対義性・同義性)も皆無

 いわば タイギ語のエキストラステージ とでも言えよう

 それを 見出した先人は ほんの 一握り いや 一摘まみに 違いないが そもそも 限られた者にしか 許されない 聖域の感すらある

 本稿 熟読の諸氏であれば ある程度の察しを 抱かれると 期待しよう


 タイギ語は 新たなる時代を 迎えようとしている 


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