【言葉遊び空論04】ナンセンス作文 ~『むいちゃん』の言語観から~

 ナンセンス あるいは 支離滅裂 と称される文章は ほじくり返せば 返すほど 巷には 溢れている

 それらの あらゆる ナンセンスな文章は 「意味が解らない」 という評価のみで 判断されるが故に 一括されているだけで 同様の構造に基づいて 生成されている とは言えない

 ここで扱う ナンセンス作文 は そうした 数多あるであろう ナンセンスな文章の中でも ある特定の構造を有したものを 対象としている



 「ある特定の構造を有した」ナンセンス作文

 それが どのようなものであるかを 把握してもらう為に まず次の 画像共を 見て頂こう

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 以上の4枚は 不定期に描いている 自作の4コマ漫画『むいちゃん』から 1コマずつ 抜粋したものである

 「妄想の激しい女の子が主人公の漫画」「現実の事柄を比喩的に置き換えた漫画」などと 様々 放言された

 だが ネタばらしのように なってしまうかもしれないが 『むいちゃん』は ある特定の法則に従って生成した文章を 起承転結に則って構成した いわば 実験的な漫画であり 個人的には 4コマ漫画の練習でもある

 この 「ある特定の法則に従って生成した文章」 というのが 『むいちゃん』を描く上で 不可欠な要素だ

 その 特定の法則なるものを 以下で 解説してみる



 例えば 「ハシビロコウが岩の上で静止している」 という文章が あったとする

 この文章の素体は 「〇〇が〇〇で〇〇している」 から 成り立っており 「〇〇が」は「ハシビロコウが」 「〇〇で」は「岩の上で」 「〇〇している」は「静止している」 というように 言葉がそれぞれ 当てはめられている

 ここで まず解る事が 少なくとも 3点ある

 1点目は この文章は 文の構成上 語順が 正確である事

 全く同じ語句を 並べたとしても 「で岩の上している静止がハシビロコウ」では 一般的に 文章としては成立し得ない

 そのような 文体で 書かれた 祝詞を 承認する神明が 存在するのなら どれほど日々の生活に貧するとも ご利益を期待する 心持ちにはならない

 2点目は それぞれの箇所に 当てられる語句が 適切である事

 「〇〇が〇〇で〇〇している」は それぞれ 「何が」「どこで」「どうしている」 という 指示を表しており これによって 「〇〇が」には物や事柄 「〇〇で」には場所 「〇〇している」には動作 といった語彙配置の 選択が絞り込まれるようになる

 「静止がハシビロコウで岩の上している」などとは 決してならず 果たして 岩の上する が 如何なる動作であるのか ラジオ体操を改変して 実演を願いたい

 3点目は 当てはめられた単語の 繋がりが 妥当である事

 ハシビロコウという 鳥類の生態上 静止している(じっとしている)事は 有り触れた光景であり 「ハシビロコウが静止している」は間違いではない

 ましてや ハシビロコウが飼育されている 国内全ての動物園を 巡った経験から 想起しても 「岩の上で静止している」事は なんらおかしくはない

 まとめると 「順序」「指示」「連結」 とでも言おうか これら3種類の要素が 通常 "違和感のない"文章を 成立させる為に 不可欠な性質となっている



 さて 『むいちゃん』において この 「語順」「指示」「連結」は どのように 関わっているのか

 結論から言えば 『むいちゃん』の場合 最も重要な役割を もたらしているのは 3つ目の「連結」だ

 『むいちゃん』では基本 「語順」と「指示」に関しては ほぼ 通常の文章形式 そのままを 保っている (保たせている)

 『むいちゃん』は 「何が どこで どうしている」 という骨組みについては (例外を除けば) 手を加えてはおらず 操作が加わっているのは 「連結」の部分と言える

 つまり 「文体そのものは変ではないが 言葉のチョイスや語句そのものが変」 というのが 『むいちゃん』の エッセンスだ

 冒頭のコマの 1つ目 「風の音がバランの失敗になってる」という セリフを 見てみる

 「風の音が〇〇になってる」 ここまでは 特に問題とすべき点は 無いだろうが では「(どういう状態)になってる」か? 「バランの失敗になってる」のだ!

 「風の音」と「バラン」には 余程の事例が無い限りは 普通 繋がりを見出せる事は あり得ない 語句同士であり 更に 追い打ちをかけるように 単なる「バラン」ではなく よりによって 「バラン"の失敗"」!

 今 半ば 手に冷や汗を握る思いで 解説しているが つまりは 「そこに置く言葉」が 重要なのである



 『むいちゃん』の根底にある 特定の法則とは 「文体そのものを 変えるのではなく 挿入する語句を操作する」事

 この法則を 設定する 切欠となったのは 芸人:ぼく脳が インターネット上に 公開していた 一連の漫画作品群だ

 現在は ほぼ見られなくなったが 氏のtwitterや 「けつのあなカラーボーイ」などで そのオーパーツを 採掘する事が出来る

 一部を転載する

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 これらは 上記の法則性に 深く関わるコマだけを 一部選んだものであり 氏の漫画全体を 貫く性質ではない事を 一応 付記しておく

 ご覧頂けると お解りだろう

 「小学校を建てようとしたら間違えて「斜め」を発明してしまった」 は典型的な構造である為 説明の必要は 無いとは思う

 ここで 注目して 貰いたいのは 「何でこんな所にダブル土下座バーガーがあるんだ」 の部分だ

 先の 『むいちゃん』の中でも 「脇見親孝行廃止条例」と言った 語句があったのを 覚えているだろうか (忘れていたので見返す というのもも良し ここで聞いたからわざわざ見返さない とするのも良し)

 ここで新たに登場した 「ダブル土下座バーガー」も含め おおよそ 現実味を持った 言葉だとは 到底 思えないだろう

 ここで 問われているのは 「親孝行+廃止」 「土下座+バーガー」という 語句の融合についてであって 「実践しようと思えば/現物を作ろうとすれば 可能だろう」 といった反応は 端から 何の足しにもならない

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 とあるインタビュー記事において 氏は こうしたネタの インスピレーションについて 「関係ないもの(関係性が非常に遠いもの)同士を くっつける」 という回答をしているが あるイベントで 本人に お会いした際に その件で直接 伺った所 「インタビュー上 ああいう風に 答えるしか無かったが 実際は ただ思い付いた通りに 描いてる」と 語ってくれた

 理由らしい理由を 付けなければならなかった という事では あるようだが 「関係ない事柄同士を繋げる」 という点は ナンセンス作文において 大いなる示唆を 導いてくれた

 「関係ない言葉同士の連結

 まさに それこそが ナンセンス作文を ナンセンス たらしめる 本筋であり バファリンでいう所の 「優しさ」ではない もう一方の半分にあたるものだ



 文体自体は 何も間違っては いないが 置かれた言葉が おかしい

 『どこでもいっしょ』シリーズは まさに その仕組みを利用し 成功を収めたゲームと言える

 ゲーム『どこでもいっしょ』は 井上トロなどの ポケピと呼ばれるキャラクターに プレイヤーが 様々な言葉を覚えさせ キャラクターが その覚えた言葉を セリフの中に どんどん組み込んでいく事で プレイヤーと疑似的な会話を楽しむ というシステムだ

 時として このセリフが まるで トンチンカンな内容に なる事があり それが このゲームの 醍醐味でもある

 そして まさしく この "トンチンカンなセリフ"の構造が 『むいちゃん』と同型なのだ

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(画像参照元:牛沢

 「100回目の 切腹が おわって… さいごの1本を 消すと…」 を見てみる

 この文脈は 「百物語」 いわゆる 怖い話を一話 語り終えるごとに 蝋燭の火を 一灯ずつ 消していく というシチュエーションが 元になっているが 本来 「怖い話」という語句に なっているべき箇所が 「切腹」という語句になっている

 これは 「100回目の 〇〇が おわって」 の 「〇〇」部分が 「すること」に 関係する言葉として チョイスされる事に 起因している

 『どこでもいっしょ』は 言葉を 「行くところ」「人の名前」「乗り物」などの カテゴリーを選択して 教える事が出来る

 ここでは プレイヤーが 「すること」として 「切腹」という言葉を キャラクターに 覚えさせた為 このような形で 反映されたのだ

 『むいちゃん』ほどに 無茶な語句の 挿入は出来ないが 『どこでもいっしょ』の その文章生成法は 同じと言って良いだろう

 余談だが こうした様式と 細部は異なってはいるものの 「ナレーションやモブキャラの 文章やセリフの一部が 全く関係の無い単語に 毎回ランダムで置換される」ような『Hylics』 「提示された文字や文節を 数種類ある中から1つずつ選択し 一本の作文を完成させる」という『せがれいじり』 などにも 類似した性質が 備わっていると考えられる

 


 『遊びの百科全書「言語遊戯」』(高橋康也:編)に 『ファトラジー(fatrasie)』と言う 技法が 紹介されている

 「でたらめうた。(中略)十三世紀末にフランスで流行した支離滅裂な、一種のナンセンス詩。」 との概要が付され 以下のような例が 挙げられている

死んだ鮭が
星のめぐりを
罠でとらえたとき
角笛の音が
雷の心臓を
酢につけて食べた

 この詩が どこからの出典であるかの記述は 一切無い為 どのような原文であったかを 現時点で 探る事は 不可能となっている

 しかし 翻訳の形であるとはいえ この ナンセンス詩でさえも これまで述べてきた形式で 成立している 事だけは 疑いない事実だ

 もっとも 『ファトラジー』と 称される ナンセンス詩 全般が このような形式であるとは 断言出来ない

 ここで言いたいのは 「"文体は正しいが配置された言葉が変"という 意図的な ナンセンス作文の 作成が 十三世紀の時点で 既に 行われていた」 という点である

 およそ 800年前のフランスで 既にこのような ナンセンスな作文(詩)を 技芸として 表出させていた という事実である

 流石 芸術の国フランス 進んでいるなぁ……

 ひょっとして そう お思いか?

 お待ちなさい

 実は 日本では フランスよりも古い 七~八世紀ごろに このような ナンセンス作文(詩)を 披露していた 驚くべき実例が 存在する

 出典は『万葉集』

 その中で 『無心所著歌(むしんしょじゃくか)』 という名で 紹介されている たった2首の歌

歌:我妹子が 額に生ふる 双六の 牡の牛の 鞍の上の瘡
読:わぎもこが ひたひにおふる すごろくの ことひのうしの くらのうへのかさ
訳:わが女房殿の 額に生えた 双六盤の 大きな牡牛の 鞍の上にある瘡
歌:我が背子が 犢鼻にする 円石の 吉野の山に 氷魚そ懸れる
読:わがせこが たふさきにする つぶれいしの よしののやまに ひをそさがれる
訳:わが夫が ふんどしにする 丸石の 吉野の山に 氷魚がぶらりと下がっている

 この2首は 阿倍朝臣子祖父 という 今では詳細不明となっている 人物が 舎人親王の 「意味不明な歌を作れたらご褒美あげちゃう」という 宣言の下で 詠んだ歌であるという(結果的に褒美は与えられたらしい)

 『無心所著歌』は その後 時代を下って 様々な物好き歌人らが 詠んだ形跡を 見る事が出来る(数は さほど多くない為 よっぽど "作り難かった"のだろう)

 ここで見たように 「文体は正しいが配置された言葉がおかしい文」 という形式は 遥かに 古くから見られた 技法である事が 解る

 いや

 単に 「昔からあった技法だった」 というだけでは 済まされない事情が ひょっとしたら 隠されているのかもしれない



うん。必ずしも泥棒が悪いとはお地蔵様も言わなかった。
パプリカのビキニより、DCミニの回収に漕ぎ出すことが幸せの秩序です。
五人官女だってです!
カエルたちの笛や太鼓に合わせて回収中の不燃ゴミが吹き出してくる様は圧巻で、まるでコンピューター・グラフィックスなんだ、それが!
総天然色の青春グラフィティや一億総プチブルを私が許さないことくらいオセアニアじゃあ常識なんだよ!

今こそ、青空に向かって凱旋だ!
絢爛たる紙吹雪は鳥居をくぐり、周波数を同じくするポストと冷蔵庫は先鋒をつかさどれ!
賞味期限を気にする無頼の輩は花電車の進む道にさながらシミとなってはばかることはない!
思い知るがいい!
三角定規たちの肝臓を!
さぁ!
この祭典こそ内なる小学3年生が決めた遙かなる望遠カメラ!

進め!
集まれ!
私こそが!
お代官様!
すぐだ!
すぐにもだ!                     
わたしを迎エいれるノだ!!

 映画『パプリカ』の中の 大悟とまで 形容された セリフの全文

 登場人物での一人である 所長が 「何者かによって 誇大妄想狂の精神病患者の夢を 脳内に流し込まれた」 際に 炸裂したセリフだ

 多大なインパクトが あったようで 本作を代表するセリフとして 今なお 語り継がれていり 中でも 「オセアニアじゃあ常識なんだよ」は メインワードとして 某大百科でも 項目のタイトルとなっている

 そして ここまで お読み頂いた方なら 既に察しは 付くと思われる

 この所長のセリフは まさしく これまで述べてきた 技法による構造を 余すところなく 有している

 ところで

 作品の演出上 このセリフは 意図的な"支離滅裂な文章"の 生成を行なったものであると 考えられる

 どのような 生成法が図られたかは 定かではないが こうして見ると ある一つの疑問が 浮かんでくる

 「意図的に 支離滅裂な文章を 作ろうとすると 多くの場合 このような形式に なるのではないか?

 『1番意味不明な文章書いた奴優勝』 といったスレッドなどを 覗いてみると

今日も疲れたから夕食のズボンを食べたら明日からは崖から飛び降りるバイトに備えて髭を剃っておこう
ねぇ…板東英二…したくない?
機内食が神奈川で犯罪と見なされ死刑

 などと言ったものが 散見出来る

 スレに投稿された回答全てが このようなタイプに なっている訳ではないが "意図的に作ろう"とした場合 やはり その多くは 上記のような形式に なっているようだ

 これは 大変に 興味深い 事象では ないか

 『無心所著歌』の頃から 『ファトラジー』の頃から 「このような形式で行えば "最も手軽な形で" ナンセンスな文章は作れる」 という事を 言語に遊戯性を見出して以来 人間は直感的に 察しているのではないだろうか

 大袈裟に言えば 『むいちゃん』は この 沈黙的かつ理念的な伝統を 知らず識らずのうちに 踏襲していたのかもしれない



 心残りがある

 これまで 散々 述べ垂らしてきたが 結局 ここで説明してきた ナンセンス作文様式の 名称を ついに 統一する事は 出来なかった

 そもそも 『ファトラジー』『無心所著歌』など 細部での呼び名はあったが これらを 包括する 技法の名称自体が そもそも 存在するのかどうかすら 解らない

 なので この「文体自体は正しいが配置される言葉がおかしい文」を 指すものは 問う各自が 好きに呼ばざるを得ない

 『どこいつ作文』... 『ぼく脳言語』... 『オセアニア文』...

 その他 どう呼んでも 多分 良いのだろう ただし それが どういう仕組み(技法)を 指しているかの 統一されていない限り 注釈は 常に要する事にはなるが

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