【言葉遊び空論06】回文 ~漢字的制限の発展性~


 回文の紹介では その例として 「トマト」や「新聞紙(しんぶんし)」を挙げるのは 定番と言っても 良いほどの ポジションを 獲得している

 しかし このような例示に対して 次のような反論を 主張する者も 少なくない事を ご存じだろうか

 「文ではなく 単語であるのに 回"文"と呼ぶのは おかしい」

 これについては 同様の疑問を 抱いた事があるので 解らなくもない

 実際 文字列が正順と逆順で同一になる「単語」を指し ”回文単語” あるいは ”回文語” もしくは ”回語”などと 独自に呼ぶ者もいる

 長く歴史のある 回文という技法であっても 現代に至り なお 精密に触れられていない側面が 存在している

 漢字も その一つだ

 回文の中で 記されている 漢字は ルビ(フリガナ)という形で 解体され その”カナ表記”の時点で 初めて 回文として 認められる

 回文の成立が 認められる その瞬間 漢字は 一時的に 存在が 抹消される

 そして カナだらけで 表記された 回文としての文字列を 一般的な文章の体として 見映え良く 成り立たせる ”変換”という 手段を通す事により 初めて 漢字は 認知されるのである



 如何なる 化学薬品を 投入しようが 湯に浸し 剥ぎ落とさんと 目論もうが 不可能であろうほどに 日本語の構成要素として 強く深く密着している 漢字は 回文のパーツとしては 今以て認められていない

(以下 漢字の表記を保ち 回文として 成立させるタイプの回文を 総称して 「漢字回文」と呼ぶ)

 そもそも 名立たる回文創作者各人をして 漢字回文は ある種タブーともとれる 扱いがなされているのが 現状である

回文というのは、上から読んでも、下から読んでも同じになる文のことです。(中略)回文はあくまでも上下同文ですから、たとえば「山本山」のように、漢字が視覚的に逆になっているようなものは含みません。
(土屋耕一『軽い機敏な仔猫何匹いるか』)

 「上から読んでも山本山。下から読んでも山本山」を キャッチフレーズとして 大々的に 宣伝してしまったばっかりに 漢字回文を否定する際 半ば お決まりのように 引っ張り出される 件の食品メーカーも たいそう不憫である

 一体何故 漢字回文は 回文に非ずと 説かれるのか?

 以下が そのヒントを 指し示してくれる

ある言語の表音文字によって構成された成句または文が、末尾より逆の順に読んでも元の成句や文と同じになる場合、それを回文(もとは廻文)と呼ぶ。
(上野富美夫『回文ことば遊び辞典』)

 どうやら こ 「表音文字」という概念が 漢字回文の 認められない事情の 感覚的根拠となっていると 思われる

 明確に 回文の定義(条件と解しても良いだろうが)に ”表音”という概念を 持ち出した例は 他に見当たらないが 漢字回文の否認という 感覚の源泉は 各人 無自覚ながら ほぼ ここに収束するだろう

 つまり 一般的には 回文は表音で記された段階で初めて回文として認められる という事情が 暗黙のうちに 無意識のうちに 不文律として 了解されているのである

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 ところで ”音”の配列を 回文の基準に 置いた場合 どのような結論が 導かれるだろうか

 1.ある清音の文字に 濁点が付与された場合 音としては 異なっている為 表音的な対応はなされていない
 よって 清濁の区別を不問とした場合 これ回文に非ず
 (例『たたむのむだだ(畳むの無駄だ)』) 

 2.促音「っ」は「つ」と違い 音を表していない為 表音的な対応はなされない
 よって 「つ」と促音の区別を不問とする場合は これ回文に非ず
 (例『かいたぶはぶたいか(描いた粒は物体か)』)

 3.拗音「ゃ」「ゅ」「ょ」は 促音同様 それ自体 音を表しておらず 表音的な対応は やはりなされない
 よって ヤ行と拗音の区別を不問とする場合は これ回文に非ず
 (例『しきにきし(屋敷に記者)』)

 4.長音符は 例え 音の代用として 対応がなされても そもそも それ自体が 記号である為 音として 認められない
 よって 長音が代用として対応されている場合は これ回文に非ず
 (例『とすとおとすと(トースト落とす音)』)

 なんと 殆どの ”いわゆる回文”が 回文と みなされなく なるではないか!

 問:音そのものではなく 音を表す”文字”である事が 重要なのでは?

 答:ならば 一層 回文の本質は 同じ字形の対称的な配列という 視覚効果である事に なるではないか!

 特に 促音と拗音が 共にそれ自体 音を持たない という性質から考えれば 回文には 音だけでなく 形状によるもの いわば一定の”視覚的”要因が 備わっている事が解る

 その上 長音を用いた 回文における 音の代用といった 手法を顧みれば そもそも ”表音文字”という点を 強調する意味は 失われるのだ

 更に 付け加えておく

 回文作品を 特集し紹介する書籍によっては ”回文数式”などと 呼ばれるものが 取り上げられている

 これは 数字や演算記号の並びが 回文と同様に 正順・逆順で成立しているものを 称している

264×693=396×462

12×4032=48384=2304×21

53+(63÷21)×18-27+423+165×982+828 
    = 163361= 
          828+289×561+324+72-81×(12÷36)+35

 一目見て お解りの事だとは思うが 回文数式は まぎれもなく ”視覚的”な回文である という事は 明らかであり そこに”音”の要求は 一切の断絶を強いられてる

 にも関わらず 視覚的であるはずの 数式は 回文として 承認されているというのは どういう事であろう

 数式が許されて 漢字に許されない というのは あまりにも ちんぷんかんぷん虎ニャーニャー

 以上の事から 次の事が断言できる

 「視覚的に逆になっている」 及び 「表音文字による構成」 という理由による 漢字回文の否認は いずれも 破綻せざるを得ない



 回文は 音の配置だけが 全てではなく 視覚的配置も 成立条件として 含まれている事は これにより 明らかになったであろう

 なるほど 例えば 「ばしゃうま」という言葉は まんまその文字列を 反転させれば 「まうゃしば」となってしまい マヌルネコの動画を募集したのに ヤドクガエルのブロマイドを 送りつけられるが如く 場違いさに見えるが ひとたび 「馬車馬」と 漢字変換すれば これは見事に 反転が成立している

 『「山本山」などは回文ではない』 という言い分は もはや通用しない

 また 『(厳密には回文とは言えないが)視覚的回文とは言える』といったように 「視覚的」なんぞという ことわりを わざわざ噛ませる 必要すら無いのだ

 (因みに 『ipod!』など 90度回転させても 同じ文字列になる といったものを ”回転”だけに ”回文”の類と括り 紹介するケースも 稀に見られるが このようなタイプは 回文ではなく むしろ アンビグラムに 配属させるべきであろう)

 だが 知らず識らずのうちに 着用が日課と化した色眼鏡は 呪縛の如く いやむしろ 呼吸の如く その意識を忘却させるに至り 取り外せずにいるままのようだ

 数多ある回文集・言語遊戯書をして 漢字回文に 言及し掘り下げ なおかつ 自身の手で 数例の作を 試みたという著者が 見られないのも そのような バイアスの支配を 許しているからであろう

 その為 肩透かしを 食らわされる 例もある

 『さかさコトバ回文遊び大事典』(島村桂一) や 『回文ことば遊び辞典』(上野富美夫)には 「漢字重ね」という項目の中で 一文全て 漢字で組んだ回文が 多く紹介されている

 ただし これはあくまで かな表記を 変換させれば 全てが漢字表記になる というものであって 本項の趣旨とする 漢字回文の類ではない

(にも関わらず 中には ”実在しそうな回文人名”などと 題して 『清野清』『愛川愛』といったものを 紹介している 稀有なケースが 何故か存在しているのだが)

反省的停戦派(土屋耕一)
[ハンセイテキテイセンハ]

進言阻止尊厳死(酒井政美)
[シンゲンソシソンゲンシ]

奇々怪々開花危機(司正勝)
[キキカイカイカイカキキ]

桜、唐梨、唐撫子、枸杞、四手、楢、樫、楢、唐草(豊田義正)
[サクラカラナシカラナデシコクコシデナラカシナラカラクサ]

一日体験安心新案携帯電話(島村桂一)
[ワンデイタイケンアンシンシンアンケイタイデンワ]

 実を言えば 漢字回文が なおざりにされる 理由として 考えられる節が 一つ思い当たる

 前述した 土屋耕一による漢字回文否認の例 などがそれだ

 どういう事か

 『「山本山」などは回文ではない』などという 解説によって 漢字回文は 「全てが漢字で構成されていなければならない」 というイメージが 築き上げられて しまっている 可能性があるのだ

 無論 そのような形式も 漢字回文と 呼べるだろうが 今回 ここで意図する 漢字回文は 「全て漢字である」もの以外も 含めている

 漢字回文には 「全てが漢字であり そのまま逆順させても 同じ配列となる」タイプ 及び 「かな・漢字混じりの文で かな・漢字表記を 逆順させても 同じ文になる」タイプ の2種があるのだ

 以下に 「全てが漢字」タイプ 「かな・漢字混じり」タイプの 漢字回文を それぞれ 掘り下げてみるが 一つその前に

 本来であれば 本編(回文~方法的厳守の可能性~)でも公言した 「創作法の説明はしない」 という趣旨を ここでも通したい所ではあるが 漢字回文自体の言及が 見られないという 異常事態を鑑み 不本意ながら 創作法に準ずる記述を 含めるかもしれない

 ご了承のほど

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【全てが漢字で構成される漢字回文】

 先の 『山本山』『馬車馬』はもとより 三文字においては 既存の熟語の中で 比較的 発見しやすい

日曜日(ニチヨウビ) 水道水(スイドウスイ)
人非人(ニンピニン) 石灰石(セッカイセキ)
筒井筒(ツツイヅツ) 金地金(キンジガネ)
刻一刻(コクイッコク) 粉白粉(コナオシロイ)
化石化(カセキカ) 体全体(カラダゼンタイ) 等々...

 方角(例:東南東)・大学名の略称(大阪大)・山河名(川内川)など 固有名詞系統を含むと 更に 数を増す事が 予想される

 既存の言葉が多い中 漢字三文字の漢字回文など 作れるのだろうか とお思いだろうが 実は テンプレといえるものが 存在する

 「中~中」のように 「中」で始まる二字漢語を使用する事で 『中継中(チュウケイチュウ)』『中国中(チュウゴクジュウ)』などのように 「今~している所」「~全体」を表す 三文字の漢字回文が成立する

 この他 『幸不幸』『在不在』など相対する言葉同士を連結させた「〇不〇」や 『一対一』『鮪対鮪』などつまるところ”vs”を表す「〇対〇」 といった 少々 手荒いテンプレも 一応の所ある

 さて ここからだ

 三文字よりも 多い字数による 漢字回文 これが本題となる

 三文字を越える漢字回文となると もはや既存の熟語では 見当たらない為 創作を 意図しなければ 成り立ちえない

 さぁさぁ 困った どうしよう

 そこに 現る 神の御手

 実は これについては 非常に有効となる 素材が 用意されている

 わが国の言葉の中で、主に漢字二字で表わされるものを中心によくよく観察してみると、中にはこれらの文字を逆にしても使われている言葉があることに気がつきます。例えば、会社に対して社会先祖に対して祖先質物に対して物質のような関係の言葉です。
(酒井芳徳『可逆語を探す』)

 著者は このような 並びを反転させても 異なった言葉として 成立する熟語を 『可逆語』と 称した

 この可逆語こそ 漢字回文にとって この上なく 最高な支援者 いや 優秀な参謀 とでも言える

 可逆語の概念によって 漢字回文の インスピレーションは ぐっと拡がる事となった

 例えば 「客観」と「観客」 この双方を単に 「客観観客」という風に 連結させても さほど 意味を見出せる事は出来ないが ここで 「客観」を「客観的」 と書き表わす事により

客観的観客(キャッカンテキカンキャク)

 という 割かし 意味が汲み取れ かつ そこそこ言葉の体裁が 整われるようになった

 このような 接頭・接尾は 大変に都合がよく

盛大超大盛(セイダイチョウオオモリ)
揮発性発揮(キハツセイハッキ)

 といった形で 表す事が出来る

 当然 接頭・接尾に 頼らずとも

 規定用定規(キテイヨウジョウギ)
 回数十数回(カイスウジュウスウカイ)
 中卒脳卒中(チュウソツノウソッチュウ)

 などの 漢字回文も 可能となる

 可逆語には 大きく 「順序を反転させても意味の関係性がありそうな」ものと 「順序を反転させると意味の関係性が無くなる」ものとの 2タイプがあり 漢字回文の場合は 就中(なかんずく) 後者が その威力を奮う

 だが 全てが漢字表記 という条件の下で これ以上に 長いものとなると 単なる 単語の羅列としてしか 表せなくなる 危険性は 極めて強くなる

 そんな中において 組み人知らずではあるが

機動隊入隊動機(キドウタイニュウタイドウキ)

 の発見は その完成度に 目から鱗の 雨霰だ

 芸人名物動物名人芸
(ゲイニンメイブツドウブツメイジンゲイ)

 格別階段 前段階別格
(カクベツカイダンゼンダンカイベッカク)

 色物中年男 年中物色
(イロモノチュウネンオトコネンジュウブッショク)

 何よりも 漢字回文の見所というのは 前半と後半で 同じ漢字が 別の読み方で使われていようとも 成立としては 問題ない という点であろう
 (「色物─物色」イロモノ─ブッショク など)



【かな・漢字混じりで構成される漢字回文】

 かな・漢字混じりの漢字回文は 文字通り 漢字以外にも かなを含んだ回文である

 問題なく 漢字と連結出来る かなの配置を 新たに考慮しなければ ならない為 全て漢字で表記されるタイプの漢字回文とは また一味違った 難題さがある

 初級としては 先ほども述べた 『可逆語』を 活用すれば 創作は いくらか容易である

 現実に実現(ゲンジツニジツゲン)
 数奇な奇数(スウキナキスウ)
 足下の下足(アシモトノゲソク)
 中立国の国立中(チュウリツコクノコクリツチュウ)

 可逆語双方の間に たった一文字のかな文字(ここではいわゆる助詞を指す)を 挿入しさえすれば 最単純な型は 可能である

 では かな文字の割合を 増やすと どのようになるのか

床の間の床(トコノマノユカ)
茶の間の束の間の茶(チャノマノツカノマノチャ)
知人の人間 民間人の人知(チジンノニンゲンミンカンジンノジンチ)

 これは かなが 各所 一字ずつのみの 配置となっている為 比較的 易しい方であると 言えよう

 ならば 次の例は 如何か

 書いた重たい書(カイタオモタイショ)

 かなが 二字以上続いている という事は 見ての通りであるが 何よりここには ある重要なポイントが 示されているのだが お解りか

 かな文字が漢字と混在するタイプの 漢字回文において かな文字は 助詞としての役割の他 ”漢字の送り仮名”としての 役割を果たしているケースが 当然あるのだ(勿論この他にもあるが)

 この例で言えば 「書いた」 と表記すれば 反転側は勿論 「たい書」と 表記されていなければ ならない

 このような 送り仮名を どのように対処するかも かな・漢字混在の漢字回文の 課題となってくる

本日、晴天だ。天晴!日本
(ホンジツセイテンダアッパレニホン)

相手の機転が運ぶか、浮かぶ運が転機の手相
(アイテノキテンガハコブカウカブウンガテンキノテソウ)

 因みに かな・漢字混在の漢字回文には 厄介な難点が 預けられている

 ここで今 用意が出来るのであれば 漢字回文ではない 通常の回文作品を 一瞥(さっと見る事)して頂きたい

 もし そこで ある事に 気付いたのであれば アナタは 相当の 観察眼 洞察力 そして 深刻なホームズ脳 を お持ちである

 難点とは 一体

 それは 回文においては 漢字の表記が 通常なされない言葉を 文頭に置く割合が 思いの外少なく 更に 文頭と文末が 共に かな文字に当てられる 回文ともなると より少数である という事実だ

 万一 文頭・文末が かな文字であったとしても その付近で 一方だけに 何かしら漢字が当てられて しまうが故 漢字回文として見た場合 対応不成立と みなされる場合が 極めて多くなるのである
(例『いいわ、可愛い』『あれえよ、エレア』)

 つまりは かな・漢字混在の漢字回文も 必然的に 文頭・文末が 漢字で当てられている いわば 熟語が置かれているケースが 多くなると見る事が出来るのだ (「出来ない」という事ではない)

よく空中の雲の中空くよ
[ヨククウチュウノクモノナカアクヨ]

ついこの間の床屋、床の間のこいつ
[ツイコノアイダノトコヤトコノマノコイツ]

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 漢字回文のあれこれ ここまでに 述べた通りである

 だが 一段落と一息ついて 茶らしき汁物を 器に注ぎ込むところ 誠に申し訳ないが これだけで 事を済ます訳には いかない

 最後に 手掛けなければ ならない事が 一つ 残っている

 回文には 濁点・促音・拗音そして長音などといった 制限が 身を寄せている事は 本編(回文~方法的厳守の可能性~)で説いた通り

 そして これらの制限には 「濁点の有無」「促音との区別」「拗音との区別」「長音の代用他」に相当する いわゆる”寛容策(ある程度の区別不問を許容し認める方針)”が 図られる場合がある事に 触れてきた

 今後 漢字回文が 発展に向かい 邁進せんとする 見込みがあると 想定した場合 漢字回文には 如何なる 寛容策が 図られると 予測できるだろうか

 以下に 諸仮説と例を示す


【1 交ぜ書きの許容】

 交ぜ書きとは 「ら致(拉致)」「ねつ造(捏造)」「改ざん(改竄)」など 熟語の中で 常用ではない漢字を かな表示にする事で 熟語を かな・漢字が混在した形に 表記する方法である

 交ぜ書き そのものの 問題に関しては 深入りすると 厄介な話題の荒波に 目掛けて ダイビングする羽目になるが ここでは そうした領域には 踏み込まない方向で 事を進める

だ円 千円だ
(「楕円千円だ」ダエンセンエンダ)

着いてしばしてい着
(「着いてしばし定着」ツイテシバシテイチャク)

か力の権利ぞく説 でん力を力んで説くぞ 利権の力か
(「火力の権利俗説 電力を力んで説くぞ 利権の力か」
カリョクノケンリゾクセツデンリョクヲリキンデトクゾリケンノチカラカ)

 「だ円~円だ」では 文頭の「だ円」は 「楕円」の事なのだが 文末の 「円だ」に 対応させる為に あえて ”楕”をかなで 表記させている事に している

 この他 「着いて」と「てい着(定着)」 「ぞく説」と「説くぞ」など 多くの 交ぜ書きを 用いて 対応化させる という手法を 大々的に設けている


【2 漢字分解の許容】

仏神「ネムイ」
(ブッシンネムイ)

性根、個人主義。主人固イ根性。
(ショウネコジンシュギシュジンカタイコンジョウ)

用応じ儲け、怠け者信じ応用
(ヨウオウジモウケナマケモノシンジオウヨウ)

 漢字分解 術語(専門的な呼び方)としては 離合ともいうらしいが 一先ず これは 漢字をパーツで分ける方法を言う

小夬日青 の イ侖享攵 で イ匕米庄 した イ壬イ夾 の
イ云糸充白勺 な 才予小青言寺 は 女口イ可 かな?
(快晴の倫敦-ロンドン-で化粧した任侠の伝統的な抒情詩は如何かな?)

 このような ものであると 思えば良い

 「仏神」では 「仏」「神」それぞれを 偏と旁で分解し なおかつ 仏の字そのものと 神の示す偏を カナに見立て(=「イムネ申」) それを逆順化させたものとなっている

 「性根~根性」では 「個」の字が 「イ固」で分解され 「固イ(かたい)」と 表現されている (これであれば 『個体固イ』でも 良かったのだが 「固体」ではなく 「個体」である為 ニュアンスの問題で没した)

 「用応じ~応用」では もはや 漢字分解のネタとしては 代表格と持て囃される 「儲」の字が 勿論 「信者」という形に 見立てている


【3 漢字代用の許容】

官房長官 超傍観
(カンボウチョウカンチョウボウカン)

同窓会 禅宗全開騒動
(ドウソウカイゼンシュウゼンカイソウドウ)

 一見すると 全て違う漢字で構成され 全く回文ではない と思われるだろう

 先に紹介した 漢字重ねでしか ないようにさえ 見えてしまう

 筆者も そういった印象ついては 同意である

 注目すべきは 漢字表記ではなく 漢字の読み方である

 ここでは 「漢字一字が複数の表音を包括している一つの塊」である という 見方で 漢字が用いられている

 つまりは
 「ドウ ソウ カイ ゼン シュウ ゼン カイ ソウ ドウ」
 という 複数音置きの配置で 回文の体裁が 成立している事になる

 しかしながら 言ってしまえば これは もはや 漢字回文 という枠組みでは 扱わない 別の言葉遊び表現であると 見ていいだろう

 また 以下のような

性格的に先人の行動か 同行の人選に適格性
(セイカクテキニセンジンノコウドウカドウコウノジンセンニテキカクセイ)

 全てが漢字であった 前掲のものと異なり 対応する熟語の 一部の漢字が 別字になっているタイプであるが この場合も 例に漏れる事は無く 「漢字回文ではなく別の言葉遊び手法」と 捉えた方が良い

 性質的には回文的(回文っぽさがある) という意味では ”回文の亜種”などの カテゴライズは 可能なのかもしれない

 発展者を求む 

【2文字を1単位として見立てた回文】
奏でる紳士だ 離れた束の間 疲れた話だ 死んでるかな
(カナ デル シン シダ ハナ レタ ツカ ノマ ツカ レタ ハナ シダ シン デル カナ)

【3文字を1単位として見立てた回文】
真下から見せずにクラクラした 暗くせずに絡みました
(マシタ カラミ セズニ クラク ラシタ クラク セズニ カラミ マシタ)

 蛇足だが 対応する漢字が 別字であったとしても
 『地下の価値(チカノカチ)』
 など 漢字一字につき 一字読みといった場合は 漢字回文などと 銘打たずに 通常の回文として 成立出来る


【4 送り仮名変則の許容】

 送り仮名とは 「強請る」という言葉で言えば「る」の部分 即ち 漢字を和語で読む時に 付される表記である

 以下の例を 見てみるとする

本年少いな 占ない少年本
(ホンネンスクナイナウラナイショウネンボン)

 文部科学省の内閣告示に従えば 「すくない」は「少ない」 「うらない」は「占い」と 送り仮名表記される事となるが この例では 回文として成立させる為 「少い」「占ない」と 送り仮名を 変則させている

 「読み方が伝わればそれで良い」 という趣旨の下で このような 寛容策が 設けられる可能性は あるだろう 

 ただし この様な場合 ”送り仮名の乱れを許さない国民の会”(実在しない)のような いわば抗議精神溢れる素粒子の集合体が 確実に出現する事は 否めず 「送り仮名が正確ではない」「正しい用法を使うべき」 というような 反応が 来ることも 容易に 想像出来る

 そうした意味では この『送り仮名変則の許容』は 漢字回文の寛容策の中でも 極めて デリケートな領域に なるだろう

 改めて言っておくが ここでは 「漢字回文に寛容策が図られる場合の可能性」を 示唆したに過ぎない為 送り仮名の厳守・寛容についての 侃々諤々 喧々囂々は 避ける

 (※「少ない」は原則上 「少い」であるはずの所 例外として 「少ない」の表記を 指定しているのだが 何故 そうなのかは 各自で 確認しておくように)

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 漢字回文は ”回文”と認知されぬまま それによって 先人のプロ達の 温もりを授からず 今日に至っている

 だが 漢字回文が 殆ど 創作されていない という事情は それだけが要因では 決してない

 理由は単純 創りにくく 題材の幅が利かない からだ

 創作量を熟したい者達にとって 漢字回文という 未確認言語遊戯体は 明らかに 近寄りがたく かつ 話題として 触れがたい 手法なのである

 奇特な挑戦者による 特殊な手並という敷居は 今以て 越えてはいない

 

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