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【ことば雑考】『天竺老婆』考

 「天竺老婆(てんじくろうば)」

 この 一生涯 知らずに終える人の方が 圧倒的に 多いであろう字面

 それは まるで 妖怪の名で あるかのような 強烈な印象を与える

 これは 岩手県奥州市江刺区稲瀬に 実際に存在する地名

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 いわゆる 小字地名であり 余程詳しい 地図や 地名辞典でなければ 掲載すらされていない 地名である
 (参考:『ようこそ!地図に載らない小字地名の世界へ』)

 ましてや 掲載されていたとしても 単に 表記と振り仮名を 添えているに過ぎず また由来を解説しているケースは 殆ど無く 「由来不明の地名」と 見なされている程だ

 (参考:【珍地名】天竺老婆に行ってみました

 本項では この「天竺老婆」の由来について 筆者が現時点で 蒐集し得た 微々たる情報を頼りに その由来を探る 



「天竺」の意味

 真っ先に 目を見張るのは 「天竺」 という言葉だろう

 天竺 と言えば インド それが 通常のイメージであるが 天竺 という言葉には 他にも 意味が含まれている

 『大言海』には 次のような 説明がある

(一)印度ノ舊名。佛教ノ起レル地。古代ハ、地勢ヲ東、西、南、北、中ノ五部ニ分チタリ、コレヲ五天竺、略シテ、五天ト云ヒキ。
(二)鄙語ニ、アメ。天。虛空。

 この(一)に 関連するであろう記述で 『日本国語大辞典』では 次のような説明が なされている

①ヨーロッパ人の日本渡来後、語にそえて、外国、遠方の地、舶来などの意を表わす。

 要は 「海外から渡って来たものに”天竺”という言葉を付けて呼んだ」 という歴史があるのだ

 「天竺牡丹」や 「天竺鼠」に その名残が 伺える

 では 「天竺味噌」「天竺醬」なども そうか というと これはまた 別であるようで 同じく 『日本国語大辞典』では 以下の様に 解説している

②(唐(から=辛)過ぎるというしゃれから)食べ物が辛すぎるの意を添える。

 洒落によって 「天竺」という名を 付すとは 恐れ入る!

 因みに 風来坊やルンペンを意味する 「天竺浪人」の「天竺」は これらの意味とも全く違い 「逃げて行方をくらます」意味の 「逐電(ちくでん)」を倒語的に読んだものである と言われる

 これらの意からすると 「天竺老婆」とは 「インドのバサマ(婆様)」という事ではなく 「(より広く)海外からやって来たバサマ」 もしくは 森田トミよろしく「辛過ぎるバサマ」 まさか 「どっか行っただけのバサマ」なのだろうか?

 いや 時期尚早

 天竺には この他にも ある意味が 含まれている

 『大言海』には 先の記述に次いで こう書かれている

(三)天竺木綿ノ略。

 更に

天竺木綿 テンジクもめん
モト洋人ノ舶來スル種ノ綿布ノ、地、厚クシテ強キモノ。略シテ、天竺。

 『日本国語大辞典』にも こうある

天竺綿 てんじくわた
インド産のわた。インド地方から輸入したわた。また、天竺木綿を製するわた。

 即ち 「天竺(インド)の綿」によって作られた 「天竺木綿」が略されて 「天竺」 

 「天竺」とは 「綿(木綿)」なのだ

 実は これこそが 重大な鍵となる


天竺と綿

 『印度復興の理念』(吉岡永美)に曰く

古書にいわく、

 桓武天皇の延暦十八年(皇紀一四五九年)七月、異國人三河國へ漂着す。唐人どもこれを見て崑崙人なりと評せれど、其人自らは天竺人なりと云ふ。明年此のコンロン人が持ち來りし綿種を、南海西海の諸國へ賜はり、植ゑさせ給ひし事あり。崑崙は天竺の西南の海島なれば、天竺人といひしならん。

 崑崙人とは、セイロン島のコロンボ人を指したものであらう。のちには、崑崙奴と書いて、クロンボとよんでゐる場合もあるが、黒坊のクロンボでなくして、セイロン島コロンボのコロンボであらう。

 『綿・麻・毛・絹』(福永基三)にも 同様の事が 説明されている

 わが国に綿が伝わったのはいつ頃かというと、桓武天皇の延暦一八年(七九九)年に、崑崙人が三河(今の愛知県)に流れ着いて、綿の種子を栽培したことに始まりますが、その時の種子は一度絶えてしまったといわれています。
 その後、ふたたび後陽成院の文禄年間(一五九三年頃)に南蛮より種子が伝えられ、大和国でこれが栽培されました。特に一六世紀末の慶長以後は綿花を紡いで織物とする方法を知り、綿花の栽培も盛んになりました。
(略)
 栽培の一番盛んだったのは、徳川中期以後で、三七八〇万貫(一四万二〇〇〇トン)を産したといわれています。

 更に同書では このような記載もある

 紀元前一五世紀頃には、すでにインドにおいて綿の繊維を使用したことが書かれています。ギリシヤの有名な史家であるヘロドートス(紀元四〇八─四八四)は、綿はインドに生産し、すでに大いに発達していることを紀元前四四五年に説いています。

 綿の発祥は インド 即ち 天竺である

 そして 現在の愛知県に 流れ着いた 天竺(インド)人が 後に 綿の種子を伝え それが 日本の綿花栽培が 広がる事となった

 というのが 一連のストーリー 一連のヒストリーだ
(参考:『【天竹神社】日本に綿を伝えた崑崙人とは』)

 この天竺人が漂着した地である 同じく愛知県内の 現在では 炻器:常滑焼で有名な 常滑市には ずばり「天竺」という地名が 存在しており この地名はそもそも ”天竺(インド)から綿が伝わった”事に あやかって付けられたものと 言われている

 さて 「天竺老婆」に 返ろう

 天竺 それ即ち 綿 いわば 綿花栽培を 指した

 「天竺老婆」の 「天竺」も 綿花栽培を 表している まさに その事実を 裏付ける 記録があった

地名の字に天竺老婆というところがございます。天竺老婆とはインドのばばあですから、綿を栽培しておったようであります。当時すでに綿花を持ってきて栽培し、綿織物を織って着るということを日本政府が教えた地域でもございます。

 『第072回国会 地方行政委員会 第22号』での 江刺市長:渡辺長純の発言だ

 間違いなく 「天竺老婆」は 綿花栽培が ゆかりとなっている

 実は ここまで 散々っぱら 天竺の意味から グダグダと 進めてきておいて 今更だが 「天竺老婆」についての 大まかな由来に 触れている文献 実は 存在している

 先に言え! と ご立腹であろうが 難解な高等公理を 中学数学の初歩から学ぶような 心持ちで 今しばらく 流れに身を任せて 頂きたい

 一つは 『胆江の地名と風土』(阿部和夫ほか著)

 天竺老婆は安永風土記に天竺場とあるように「テンジクバー」と発音されていました。これは「天竺はんや」がなまったものといわれます。天竺はんやは綿のことで、江戸時代の陸奥国の綿作につけられた、名稱です。

 もう一つは 『東北の地名・岩手』(阿部和夫ほか著)

『安永風土記』に「天竺場」とあり、「テンジクバー」と呼ばれていた。このころ稲瀬では自家用その他のために綿花を栽培していた。綿花は「天竺パンヤ」と呼ばれていた。「天竺場」は「綿をつくっていたところ」をあらわしている。

 (※『安永風土記』:江戸時代に仙台藩が編纂した地誌) 

決定打であろう

 綿花栽培に基づいた地 「天竺場」(テンジクバー)にある 天竺の語が そのまま 「天竺老婆」に 残ったのだ

 因みに 「パンヤ」とは ポルトガル語で 「カポック」「木綿(きわた)」を 意味する語であり 「はんや」も恐らくは それを指しているだろうと思われる


「老婆」とは?

 「天竺老婆」は 綿花栽培が元となって 「天竺」の名が付いている これはわかった 合点承知 ただ 問題が残っている

 「天竺老婆」の 「老婆」の由来が 不明確なままなのである

 この地名の 異様さを 特出して象徴する 部分であるにも かかわらず 何故か ここだけ 定かではないのだ

 先の 『東北の地名・岩手』では 以下の様にある

その後「ランバー」はそれとは縁もゆかりもない「老婆」と変わってしまったのである。

 この文は 先に引用した文に続いて 記載されていたものであるが ”ランバー”なる語句が いきなり登場し 何を指しているか ここでは全く触れられていない

 思い当たる節としては インド神話に登場する 水(海)の精 ラムバー(ランバーとも呼ぶ)

 仏教 『法華経』においては 十羅刹女と呼ばれる 10人の女性鬼神の中の 一神「藍婆」として 挙げられている

 なるほど 「藍婆」 いわば「ランバー」が 「老婆」に転じた という訳で あろうか

 地名は音に頼るべし とは 民俗学者:谷川健一の言葉であるが 確かに その可能性は あるだろう

 けれども 仮に「藍婆」の事であったとしても 何故 いきなり 脈絡なく 「ランバー」を拵えて来たのか

 確かに 綿がインド由来である事と インド神話の女神である事の 「インド」という共通項は 導き出されるが 関連性は見いだせない

 ともすれば この地が 「天竺(インド)神話の女神ランバー」 それ自体を表わしている 地である事になるではないか

 まさかの 「インド神話ゆかり」説

 (※かといって 全く インド神話そのものに ゆかりが無い とは言えず インド神話の女神:サラスヴァティーである 七福神の一柱「弁財天・弁天様」にまつわる 堂・社は数ヶ所 存在している)

 いや単純に 「天竺場」(テンジクバー)の「バー」が そのまま「婆」(ばあ)に当てられて それが 「老婆」に転じたのではないか

 恐らく 誰もが 真っ先に そう思い浮かべる事だろう

 しかし どうも 煮え切らない部分が 残る

 

バンカミ屋敷

 「天竺老婆」の 「老婆」が 謎として残ったままだ

 この点に関しては 少々 気になる部分がある

 前述の 『東北の地名・岩手』と 『胆江の地名と風土』の 「天竺老婆」解説において 次のような事が 記されている

地区内の「バンカミ屋敷」は綿神をまつった屋敷であるという。
『東北の地名・岩手』
バンカミ屋敷は綿神の祭主の屋敷の名稱です。
(『胆江の地名と風土』)

 「バンカミ屋敷」なる建造物 筆者は 惜しくも 確認出来ていない

 しかし 「天竺老婆」内には この「バンカミ屋敷」という 綿の神を祀った建物があるらしい という事は ハッキリしている

 ここで 注目したいのは ”バンカミ”という語だ

 何を指した言葉か これだけでは 定かではないが 『胆江の地名と風土』に 興味深い節が 記されている

姥神(衣川村)
土地の人々は「ばんがみ」と呼んでいます。源義経が平泉に下る時、北の方が出産した若君を育てた姥をまつったところといわれます。

 おそらく 現在の 「衣川姥神谷起(うばがみやぎ)」の 事であろうか

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 この 「姥神」という名は 「バンガミ」と 呼ばれていたそうである

 「バンカミ屋敷」の「バンカミ」と 「姥神」の「バンガミ」 一字の濁点の有無という 違いはあるが ほぼ同種のものであろう事は 想像に難くない

 「バンガミ屋敷」は 「姥神屋敷」の意味だと 大いに推測される

 そして 姥神の 「姥(うば)」が 「老婆(ろうば)」に 転用された可能性は 考えられる

 因みに 「うば」の付く地名は 各地に多くあり 「急傾斜地の事」であるとか 「崖地・岩地の意味」であるとか 「南東を表わす地形語」であるとか 諸説紛々と なっているが これ以外に 先の「姥神」にもあるような 「当地の老婆・乳母にまつわる伝説にあやかったもの」もある

 なお 余談となるが 愛知県岡崎市美合町には 「老婆懐」という地名があるが 読み方は 「うばがふところ」である(この名称は 表記される字は違えども 姥ヶ懐 祖母懐など 日本各所に存在する)


「老婆」の正体

 先の 「バンカミ屋敷」では 綿神が まつられていると あったが 綿神というのは 何やら 馴染みのない神である

 それもそのはず

 綿神が 神社で正式に まつられているのは 愛知県西尾市天竹町の 天竹神社のが 日本では唯一であると されている

 天竹神社の 祭神「新波陀(にいはた)神」は 漂着した天竺人を綿の神としたものだ (”にいはた”は「綿」の意味)

 しかし 「バンカミ屋敷」において 祀られている 綿神が この天竹神社と同じ 新波陀神であるのではなく 独自の存在を 綿神として祀っている と考えた方が 自然であるかもしれない

 その独自に祀られた綿神と 屋敷の名ともなっているであろう姥神は 共通の存在である可能性は 否定出来ない

 先述した 北の方が出産した若君を 育てた”姥”にあやかり その地が「姥神」と名付けられた という引用を 思い出して頂きたい

 この姥神の名が残る地は 衣川村(現在村名としては消失)であったのだが この「衣川」と名付けられたのには 由来がある

村名の由来は、高檜能山五輪石上の谷に天女が舞い降りて、羽衣を乾かしたという伝説による。
(『角川日本地名大辞典 3 岩手県』より)

 日本各地に存在する 羽衣伝説が この地にもあり そこから 衣川という名が付けられた という訳だ

 この羽衣伝説 天女が天に帰る”近江型”と 舞い降りた地に留まる”丹後型”に 多きく二別されているらしいが 衣川の伝承においては 「天女が舞い降りた」というだけに 伝えが留まっているようで 果たして 天へ帰ったのか 土地に留まったのか 判然とはしない

 しかし これまでの素材から 「衣川に舞い降りた”天女”は 何らかの事情で その地に留まり 後に ”姥神”と呼ばれる存在となった」 という仮説も ありえるだろうか

 そうなると 「バンカミ屋敷」で祀られている綿神は 舞い降りた天女の老いたる後の姥神と 同一である という説と相成る

 衣川という名は 村としては消失したが 今でも 衣川石神 衣川旧殿 衣川夏秋 衣川竹の中 等々多くの地名の中に残っている

 因みに 地理としては 「天竺老婆」のある稲瀬 つまり江刺区から見ると 南西に位置している

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(『奥州市公式ホームページ』より 奥州市地図)

 ただ 今でこそ 江刺と衣川は 奥州市として 一括されては いるものの なぜ 衣川の天女もしくはその存在が 江刺に至ったかは 説明出来ないし そもそも 「バンカミ=姥神」という 言葉上の表現のみが 伝播しているに 過ぎないと考えうるのは 当然の事であろう

 この 「姥=天女」説は 保留とせざるを得ない


天竺の姥

 しかしながら 「姥」に関連する情報は 衣川に 留まらず 他にも 奥州市内で 発掘する事が 出来る

 先ほどの 奥州市地図の画像を ご覧頂くと 衣川の北に 「胆沢(いさわ)」という 地区がある事が 解る

 実は この胆沢に 興味深いものが 見られる

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 奥州市の西に位置する 胆沢は 夏油山域と呼ばれる程に 山に覆われており その中の一山に 「焼石(やけいし)岳」が ある

 この焼石岳南東麓 荒沢と金山沢との間(上記地図の青いチェック部分)には 「ウバ沼」と呼ばれる沼が 存在する

 ウバ沼は オバ沼・姥などとも 呼ばれており その名は 「山姥(やまんば)」が居た事に 由来するというのである(『角川地名大辞典3岩手県』から)

 山姥という存在は 「山の神に仕える巫女が妖怪化したもの」「山の神が凋落したもの」などの説があり それはまさしく 姥神の信仰とも 関わるものである(※山の神は 一般的には 女神である事が 多い)

 つまり 山姥=姥神 なのだ

 そして 上記地図の上部を ご覧頂くと お解りの通り 胆沢郡胆沢町の西部に位置する 「天竺山」と 呼ばれる山があるのだ

 天竺山は 「焼石火山群の横列グループの一峰」(同掲)と呼ばれ この近辺には 「天竺峠」「天竺沢」と 恐らくは 山名から付けられたであろう 天竺の号が 散見される

 天竺山 と呼ばれる山は 日本各地に存在し 多くは 「高所である」事から 付けられたものと 思われる(かつて新潟県小千谷村には 「天竺」という町があり それも”高所であった”故に 名付けられたものである)

 なんという事か

 ここに 焼石岳 という共通地点において 「天竺(山)」と「姥(沼)」が 関わりを有しているのである

 そうは言うが やはり 同じ焼石岳に 存在するとは言え 直接的に それが 関連性を有しているかは 不明である

 何より 「天竺山」と「天竺老婆」の各「天竺」は これまでの推察と解説からすれば 双方 意味を異にしている為 この点でも 偶然である可能性は 否めない


金華山石塔

 いや それでも 「姥神・山姥」から 「老婆」へと転じた点については まだ 捨てきれない

 何故なら 「天竺老婆」には 「姥神」に関連し得る 直接の物証が なんと 存在しているからである

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 (『奥州市江刺区稲瀬・金華山』から転載)

 地区内に このような 石碑・石塔がある

 金華山は 宮城県石巻市に浮かぶ 孤島であり 島全体が 金華山に鎮座する 黄金山神社の神域であり 数名のみの在住者 全てが神職者という 霊場である

 これら石碑・石塔は 江戸時代 村内安全を願う 村民らが 霊場金華山から わざわざ石を運び建造した 凄まじいアイテムなのだ

 そして この3メートルに及ぶ 巨大な「金華山」石塔の脇に 立ち並ぶ 石碑群の中に 「山神尊」と彫られたものもある

 明らかに この地が ”山の神”の力によって 安寧を祈願した という事が うかがい知れる


結論

 江戸時代 この土地は 綿作を行なっていた

 当時 綿・木綿は ”天竺”とも呼ばれていた事から 綿花栽培の場所をして 「天竺場」と 称された

 しかし 何らかの事情があり 経済的に苦しい状況に 陥ったのだろう

 そこで 村内安全と 共に 金運向上の意も含め 霊場:金華山から石を運び 石碑・石塔を作り上げた

 金華山の山の神によるパワーを この地に 呼び起こそうとしたのだ

 同時に 山の神 すなわち 姥神を 綿作の地の所以で 綿神として 「バンカミ屋敷」に 祀った

 天竺場・姥神 それが合成され ついで省略されることで 天竺姥(てんじくうば) となり 意味合いからか 語呂からか 定かではないが 姥は老婆へと変じ 「天竺老婆」と 呼ばれるに至った

 以上が ここまでの 結論である

 当然ながら あくまで個人の一説に過ぎない事は 重々 ことわっておく

 筆者は この説に 絶対的な確信を 抱いている訳でもない

 より 確実たる由来に 到達するには 実際に現地に赴き見聞する より深い時代的考証などを 必要とする事は 炎を 炏を 焱を 㷋を そして 燚を 見るより 明らかであろう


 異説

 『県別地名便覧と官公庁総覧』(1959)の 「江刺郡」にて 以下のような記載が 確認出来る

稲瀬 (小字三丁・地蔵堂・天笠・土手外・沼尻・沼館・中島・老婆)

 稲瀬地区の中にある 小字地名を 列挙したものであるのだろうが 何やら 違和感を覚えずには 居られない

 「天笠」(おそらく”あまがさ”)

 稲瀬の中に このような地名は 見受けられないが よく見ると 形状が 「天竺」に 非常に よく似ている為 ひょっとしたら 誤植である可能性は考えられる

 (※一応 群馬県の前沢町前沢と滝沢村姥屋敷 山口県の美祢市於福には 「天笠」という地名は 存在している)

 だが問題は もう一方

 例えこの 「天笠」が 「天竺」の事であったとしても このような 記載から見れば 「老婆」は また別の小字地名である としか見えない

 この文献からすると 少なくとも1959年時点において 「天竺老婆」は存在せず 「天竺」という地と 「老婆」という地が (隣接ではあっただろうが) 別で存在しており 後に統合した という仮説が 浮上してくる

 「老婆」が単独で 別の地であったとすると 山の神(姥神)への祈念 という事では まだ説明 出来るかもしれないが 綿作とは無関係であったと 見る他無い為に 綿神を祀る「バンカミ屋敷」などとは 繋がらないのではないか

 「天竺」は 「天竺場」から続いた 地名であったのに対し 「老婆」は また異なった成り立ちによって 生成された地名だったのだろうか

 もし そうだとすれば 「老婆」とは 何を指していたのか

 前記 『東北の地名・岩手』において 「ランバーが老婆という語に変わった」 という解説を挙げた

 ランバーが そもそも何であるか 本著では不明である事は 既に触れたが 「元の言葉から変化して現在の表記となった」 という事例は 地名では ごく当たり前に 見られる傾向である

 「老婆」が 何らかの全く別の 言葉の転用である という見立てをする

 そこで一つの検討を付けたのは 先ほどの 「ランバー」から ヒントを得たに過ぎないが 「らんば」 という言葉だ

 果て「らんば」とは?

 この言葉 国語辞典の類では ほぼ掲載されてはいないが 実はこれ 姓名もしくは地名で 見られる 語なのである

 表記は「乱場

乱場 らんば
岩手県久慈市の名字。北海道日高地方にもある。
(『難読・稀少名字大事典』森岡浩編)

 この他 地名では 秋田県横手市十文字町睦合に「乱場」 山形県新庄市金沢に「乱場堂(らんばどう)」 そして字は異なるが 岩手県宮守村宮守に「蘭場」 宮城県遠田郡涌谷町に「蘭場谷地(らんばやち)」 といった例が見られる

 この 「らんば」とは 一体 何であるか

 なんと 方言にある 地域が 存在する!

 一つは 鳥取弁に 「ちらかっている場所」 すなわち 「乱れた場」 そのままの意味で 「らんば」という 方言があるらしい

 しかし 気になるのは もう一つの方だ

 仙台弁としてある 「らんば」とは なんと 『墓地・墓所』を意味するというのだ

 どういう事だろうか

 ここからは 少々不確かな情報になってしまうが 「乱場はラントウバからくる言葉」である というのである

 ラントウバとは何か これは辞書にもある

らんとう 卵塔|蘭塔
 (一)墓石。石塔ノ圓形ニシテ、鳥ノ卵ニ似タルモノ。無縫塔。
 (二)墓場。ボチ。卵塔場。

 らんとうば 卵塔場
 前條ノ語ノ(二)ニ同ジ。
 (『大言海』より)

 「乱場」とは 「卵塔場(蘭塔場)」 即ち 墓所を意味していた!

 「老婆」とは 墓所を意味する「卵塔場」 すなわち 「乱場(らんば)」の語が 変化したものではないか

 即ち 綿作の地であった「天竺」と 墓所であった「乱場」転じて「老婆」の 統合した土地 それが 「天竺老婆」ではないか

 これを 異説 いや 奇説 とでも しておこう

 読者は 「こうやって都市伝説は生まれるんだなぁ」という 心持ちで 意を介して頂きたい



追記

 情報の提供があった

 『岩手の地名百科 : 語源・方言・索引付き大事典 』(1997)にて このように 解説が なされているそうである

①「手作り畑」の略で、豪族の手作地。
②「手繕い場」の略で、蹄鉄屋。

 『安永風土記』での 「天竺場」と言った情報に 真っ向から反旗を翻した上で これまでの記述では 一切 関わって来なかった 事柄のみであり おそれいった

 ②の 「てつくろいば」が転じて「てんじくろうば」 というのは 筆者としては 面白く思ったが 実際の所 この情報は どこから 拵えたものであるのか そして どこまで確実性を持つのか

 やはり 今後も 調べを進める他 無いという事だろう

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