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過去のテキストと対話する/制御不可能

現在の瞬間を経由して考える。今の自分をハーケンとして、地層を掘り下げていく。今すぐに過去の自分を描く・書くことはできない。過去の自分を装うのではない。

タイムマシンに乗る、今の自分から乗り込む。記述行為を進めて地層を掘り進め、均していく。準備運動、潤滑油、熱を与える作業が必要。タイムマシンを動かし過去と繋がり、その上で自分のことと繋げて書くことである。

嘘をつくと書くことができない。きっとそう。テキストについて、あたかも「今私が過去の自分であるように」装っていたから、うまく書けなかった。

即座には繋げられない時間の壁が過去のテキストとの間にあり、それをあたかもなかったかのようにすることはできない。ここに関して、小説を書くこととは明確に違う。小説を書くというのは、今感じていることを書くのではないか。

肩を振り回し、接続する時間が必要だ。

他者性

「文章が生命を授かる」それと、時間の壁に阻まれ過去のものと成り果てた、完全な他者となった生命はどう違うのだろうか。自分の言ったことが、全く違う生命を持っているように感じる。

とても焦っている。とりあえず、文章を書く。かけることをする。できることをやる。焦っている、それを受け入れる。

文章は完全な他者ではない

文章が離陸する、他者になる。それは完全に他者になるのではない。自分の手を離れ始める。完全に離れたわけではない。

完全に離れず、自分の内側から出たものであるとも言える。自分から出てくるのには変わりないはずだ。

何かが違うと感じた。過去に書いた文章を読んで、今の自分でないように感じた。他者の塊のように感じたのだった。過去の自分のテキストが、新たな他者であるように感じたのだ。どうやって、自分の中にある、見て吐き出すベルトコンベヤに乗せるか、悩んだのだった。テキストに考えさせると言っても、自分の考えも乗る。昔の文章に書き加えるのは、書くことは、テキストと自分の共犯、ということだった。

よく聞くことだけれど、いい。興味がある。自分がそれについてどういう風に感じながら執筆してきたのかを考えたい。

自分が生成したものにこだわりがあったのが、テキストに徐々に比重が移っていく。テキストが「話す」事が増える。だけれど、私が話すことも変わらず存在する。ただ、比重が重くなって、徐々に雪だるまが大きくなって、操作が効かなくなるというだけ。それだけ。小さな方向性はこちらに残ってしまっている。

自分を関数とした、ジェネレーターから出てこないといけないと思った。なぜなら、自分のものでないといけなかったから。現時点の自分の考えが乗らないと、意味がないと考えたと言うより、嘘をつくことになるのでは、と考えた。

出会いのための文章

違う、文章は自分だけで書くものではない。自分とテキストが共同で書くものだった。書かれた瞬間に、テキストは自分に対する教師にもなる。

その出会いを求める。テキストは、そのままの意味で子供を育てるのと一緒だ。勝手に育っていく。育てるのではなく、育っていく。子供に私も育てられる。

その、気持ち悪さと居心地悪さも含めて、新たな出会いのために書くのだ。

書いてもいい。「過去のテキストに、過去の自分を装ってそのまま書かなくてはいけない」わけではない。自分の中の違和感、不和を大事にしながら対話的に書いていくということ。

難しい。対話的に書くこと。何か、面白いとは思っている。それによって、色々言ってくれたこともある。自分はこれを言いたかったのかもしれない的エウレーカがあった。けど、少し退屈なように感じてもいる。まあ、進めてみよう。知ってたこと的に感じているから。
進めてみて、考えようか、

過去の自分として書かなければいけない、というのは、現在の自分の感情を無視しなければいけないということだった。それはよくない、というか不可能である。途中で無理が生じるのも当然だ。現在の自分が感じることしか感じることはできない。
今も分割することができるのでは?そういう時間へのアイロニー的な方向のものは後で良い。今は、「今あるのは今しかない」ということで良い。

対話・アンコントローラブルへ

相手に合わせるというのは、きっと、自分の違和感をなかったことにすることではない。自分の違和感を大事にしつつ、そのまま進めてみること。違和感にこだわらないこと。自分の違和感があるけれど、それはそれとして進めてみる。他者的な、コントロールできないなにかに進んでいくという方向性が必要。

私はそれが怖くてできなかった。

自分の予想できないところへ進んでいく会話は、やっぱり怖い。そういうところに進んで行きたくないし、だからこそ普段からシャドーボクシングをしているわけです。自分で相手が言うことを想像して、もしこう言われたらこう返す。そして、どうしてそう返すのかと言ったら、きっとこの人はこのときこういうムードになってるだろうから。予行演習が欠かせなかった。

アンコントローラブルなタイムトラベルに身を開けば、会話でも航海できるかもしれない。

ここまである程度書き続けて、考えていることが発散してしまったことも何度もあった。何を書いているのか、何をしたいのか全くわからないことが何度もあった。

結局、なんとかなった。繁殖してきたものが何故か絵を表していた。

キャパオーバーになることがとても怖かったのだった。高校時代、元文化部だったのに運動部で無理したこと。無理・背伸びが最終的に私の燃え尽きに繋がった。走りすぎて高熱を出して吐いた。駅から高校に向かう最中、校舎の外の電柱の横で座り込んだ。そして帰った。

このことは、どういうことだったか。多分、今はタイムトラベル、過去のテキストの他者性、アンコントローラブル性についてを論じてきた。これは、直接開くことにつながる。アンコントローラブルなものに任せても、結局なんとかなったんだな。そういう安心感を得るんだ。

テキストを吐き出して、結局何かを言っているということを見届けること。それが他者性に身を開く一つの訓練になっているように思える。最たるものは、きっと小説を書くことだ。それも、構成やプロットのしっかりしていない小説。

自分の辛さが増えないように、警戒しているのだった。

私は、今もちょっと焦っている。昼間の仕事があまりうまくいかなかったから、何かをしないといけない、と思っている。そして、転職の変身をしなければいけないと考えている。できることは?今できることはなんだろうか。返信をすることだな。

キャパオーバーとオープンさ、その関係は一目瞭然だった。キャパオーバーにならないために、自分を閉じておくのだ。自分が燃え尽きないように、警戒して期待を下げておくことだった。長男の物語には繋がっているだろうか?あまり繋がっている気はしないけれど。

外に表現すること、自分の弱みをこうやって文章に起こすことはとても不利ではないかな、と思う。外に表現したくない、オープンにしたくない。自分の後ろ暗いと思いこんでいるところをオープンにしたくないのだった。

おーい、出てこーい。

転職活動をしている。内定を受けたけれど、働くことに恐怖を覚えている。自分があっている会社なのだろうか?会社の人間関係に馴染むことができるだろうか?感情的になるのが怖い。やはり、新たな環境がとても怖い。ただ、ここで踏み出さなかったら、今の大切な時間を、ある程度必要なお金を稼ぐために使えなくなってしまう。目の前のことに忙殺されるのではなく、新たな環境に身を開く。

少しずつ発信して成果を見えるようにしていく方向へ。一つのところに依存しないように軸足をずらしていくことで、むしろアンコントローラブルなものに飛び込むことができる。

だから、転職だけでは意味がないのだ。転職と副業と、それ以外もろもろに手を広げてしまう必要がある。一つのところへ依存するのは、とても怖い。さらに、それがアンコントローラブルなものであるほど。自分を守り、むしろ開くために、力を溜める必要がある。

手に持っているカードを見えるようにして、増やすそれだけだ。進路に完璧はない。つまり、全てをコントロールできない。複数の選択肢を持っておくための行動をするのだ。もっと遊離する。遊離して、制御不能な時間旅行を楽しむ。

安易に努力しない。長期的に動けるような、安全な方法で成果を上げること。努力することを表明する、という飴玉につられないこと。自己犠牲をせずに助けられるように、普段から努力しないレベルで勉強する。

同じことを書いているように見えても実は異なる。違う視点、違う言葉、違う風呂敷の上で書いている。同じことを書くことはできない。ここにもカビや腐敗がある。

感情がやってきてくれたら、その機会に感じ取ってあげる。掬い取ってあげる。コントロールできなさと直面する。

先程、採用者さんたちへの返信が滞っていた。なぜなら、内定通知に対してどう返信すればいいか分からなかったから。すぐに返答を求められているように感じて、プレッシャーだった。早くYesかNoかを決定しなければいけないと、プレッシャーを感じていた。プレッシャーに弱いのだ。だからこそ、しっかりとプレッシャーを感じること。

こういう感情を感じてあげること。感じきることはできない。できるだけやるのでよい。

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