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斉藤朱夏に泣かされた話

何気なく再生した斉藤朱夏さんの楽曲『僕らはジーニアス』に泣かされた。我々にお手本を見せるように力強く突き進まんとする姿に勇気づけられた。
そこには、ぐんと前に手を引いてくれるようでもあり、同時に後ろから優しく背中を押してくれるようでもある、「ヒーロー」斉藤朱夏がいた。

「気の持ちようで何とでもなる」という主題の楽曲は、この世に五万とある。しかしその中でも、小気味良い歌詞はこの曲ならではの特徴であると感じられる。
「平均点つか及第点」→「限界点は通過点」、「恥もべそもかき捨て(「旅の恥はかき捨て」と「べそをかく」を並列)」、「隣の芝生(「隣の芝生は青い」からの引用)」→「青 赤 イエロー」、「馬耳東風」→「そこのけ我が通る(「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」からの引用)」といった歌詞の呼応や引用は、自らのことばに責任を持つ(言ったことを回収する)だけの気概が感じられ、その分ことばの価値も自然と重くなる。

しかし、上で見た引用自体が直接的にことばを重み付けることは拒否しており、「どっかで聞いた人生訓なんて右から左」として流されないことを重視している。こうした付和雷同的な態度の拒否は、曲の節々に見られる。「好きな色」と言ったときに「青 赤 イエロー」が例示されるのは、「三原色」を使って「自分だけの色」を選ぶことを示唆しているし、幾つも考えている「必殺技の名前」には全て「しゅか」が入っているのも、「自分だけの必殺技」を意識していればこそであろう。こうした巧みレトリックを駆使して、「気の持ちようでどうにだってなるかも」と思わせてくれる。

加えてそうした感覚を強めてくれるのは、MV中での斉藤さんの振る舞いである。いかにも自信満々で、楽しげなのだ。小さな体を大きく大きく使って、ベッドやアトラクションの上でパフォーマンスをしている。ほとんど常に我々は「見下ろされる」画角であり、一層斉藤さんの背中が大きく見える。我々の「ロールモデル」としての斉藤さんの姿を見て、前を向いてみようかなという気持ちにさせられる。

そしてこの曲で最も勇気づけられるポイント「なりたいもんになろうぜ ちょっと信じてほしいな」へと至る。一番と二番で、「視点や考え方を変える(誰かと比べない、やりたいようにやる)」という発想は出てきたが、「自分自身を変える(なりたいもんになる)」という話はここが初めてだ。それには独自の困難が伴う。というのも、主体それ自体の変容は、他者の眼差しの変容を伴いうるからである。姿を変えると周囲の眼差しが変わる。いくら「他人を気にしない」と言っても、それは勇気がいることだ。

そうした障壁を前に足踏みする我々の背中を、斉藤さんは優しく押してくれる。そうした障壁を乗り越えて「なりたいもんにな」っている私を「信じてほしい」のであり、同時に、キミが姿を変えても私は否定的に捉えることをしないということを「信じてほしい」のである。つまり「ファーストペンギン」として、また同時に、我々をまなざしうる他者の一人として、我々が「なりたいもんになる」ことを応援してくれているのだ。

斉藤さんは完璧ではないし、それを隠さない。ヒーローの姿でこけるし、乗っているパンダの乗り物はノロノロだし、体を大きく見せるため(見下ろすため)にベットに乗る。しかしだからこそ、我々も真似してみようという気になる。自分の声に耳を傾けてみたくなる。自分のなりたい姿になってみたくなる。そうした力が、『僕らはジーニアス』には備わっているのではないか。

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