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ジェンダーの切り口から見た、イベント「荊棘の道は何処へ」感想 〜私たちが暁山瑞希を苦しめる「男子生徒A,B,C」にならないために〜


1. はじめに

ゲーム『プロジェクトセカイ』内でのイベント「荊棘の道は何処へ」を機に、3年半ほどリズムゲームとしてのみ続けてきたプロセカのストーリーを読み始めました。「25時、ナイトコードで。」のキーストーリーをざっと読んだだけですが、メンバーそれぞれの「消えたい」という息苦しさ丁寧に、そして誠実に描いているという点で、非常に好印象を受けました。そして同時に、一人のオタクとして、そして現在進行形でジェンダー/セクシュアリティについて(専攻しているとはいわないまでも)大学である程度勉強している学生として、本イベントストーリーにおける暁山瑞希やその周りの描き方、そしてファンによる受容について、他のメディアでの表現では見られなかった素晴らしい点や、批判せざるを得ないもったいない点など、色々と考えるところがあったので、この記事を書いています。

本稿では、はじめに前提となる用語の確認をした上で、「荊棘の道は何処へ」のイベントストーリーを中心に、素晴らしいと感じた点批判せざるを得ない点について書きます。そしてその後に、今回のイベントストーリーのような、あるいは類似の「悲劇」を現実において生み出さないために、すなわち現実にいる「瑞希たち」を苦しめるのに加担しないために、私たちが考えなければいけないことについて書き、最後に、そこから見えてくるもう一つの可能性を論じます。


2. 用語の導入

本稿では、周司・高井(2023)に基づいて、以下のような意味で用語を用います。

トランスジェンダー出生時に割り当てられた性別と、ジェンダーアイデンティティが異なる人たち
シスジェンダー出生時に割り当てられた性別と、ジェンダーアイデンティティが一致している人たち
出生時に割り当てられた性別:子どもが生まれた時に(あるいはその前の段階から)、子どもの外性器の形を主な基準として、医師やそれに準じる職業の人々が与える、女・男いずれかのカテゴリー。それは、出生証明書に記載され、日本であれば戸籍や住民票に反映される。
ジェンダーアイデンティティ自分自身が認識している自分の性別、自分がどの性別なのかについての自己理解のこと。(※自分がどの性別集団に属しているのかについての帰属意識とも関わるため、単なる「思い」とは異なる。)本稿で単に「女性である」などと言ったときには、ジェンダーアイデンティティについての言及をしている。
ノンバイナリー:自分を女性でも男性でもない性別の存在として理解する、いかなる性別の持ち主としても自分を理解しない、あるいは女性と男性の二つの性別の間を揺れうごいていると感じるなど、ジェンダーアイデンティティを「男性」や「女性」のどちらか一方に安定的に見出しているわけではないようなジェンダーアイデンティティや、そのようなジェンダーアイデンティティをもった人々。上記のトランスジェンダーの定義を用いれば、ノンバイナリーの全員がトランスジェンダーに含まれることになるが、ノンバイナリー当事者の全員が、自分を「トランスジェンダー」として理解しているわけではない。本稿では、「広義のトランスジェンダー」と言及することによって、ノンバイナリーを含むトランスジェンダーのことを指す。

なお、これらの用語法に関連して、やはり周司・高井(2023)に基づいて補足をします。

・「身体の性」と「心の性」の不適切さ
トランスジェンダーの説明として「身体の性」「心の性」を用いた説明がされることも多いですが、これらの用語には問題点があります。
まず「身体の性」について。私たちが日常的に他者の「性」を知るために用いている身体的特徴は多岐にわたっており、例えば背の高さや顔の骨格、胸部の形状、外性器、内性器、体毛の濃さや生え方などです。これらは全ておのおの「性別」のカテゴリーと結びつくことがあり、性差によって違いのある身体的特徴とみなされることがあります。にもかかわらず、「身体の性」という表現を使うと、身体の性的特徴が身体のごく一部(外性器の形や染色体のペアリング)にのみ存在しているかのような現実とは乖離した印象を与えてしまいます。また、「身体の性的特徴」の代表としてイメージされがちな身体的特徴すら変更が可能であるのに、それが変更不可能であるかのような印象を与えることも問題です。
次に「心の性」について。これは、人々が社会の中を生きていく過程で自身の性別についての認識を確立させていくプロセスを無視し、自分一人の認識に基づいて決定されるというニュアンスを持たせる言葉である点で問題があります。また、そのときどきで自分の気持ちが変化するという不安定さ、そのときどきの思いつきや、なんの実質も伴わない一時的な自己主張であるというイメージを持たせることも大きな問題です。

以下では、これらの定義を踏まえて、瑞希をめぐる描き方について議論します。

3. 暁山瑞希の割り当てられた性別とジェンダーアイデンティティはそれぞれ何か

※※トリガーワーニング:トランスジェンダーに対する攻撃的な言葉や、アウティングの話題が登場します※※

※※本節では、作中の描写から瑞希のジェンダーアイデンティティや割り当てられた性別を推測しますが、これは瑞希がフィクションのキャラクターであり、かつ、以降で述べるシナリオなどの評価に際して必要であるにもかかわらず公式が明言をしない(後述)限りにおいて行う行為です。現実の人間に対して行うことはもちろん許されませんし、フィクションのキャラクターであってもそれを娯楽として「消費する」ためにそのような行為を行うことは好ましくないことであると考えています(後述)。※※

結論から言えば、瑞希は、割り当てられた性別は男性で、ジェンダーアイデンティティはノンバイナリーなのではないかと考えています。

まず割り当てられた性別が男性である根拠として決定的なのは、イベントストーリー7話、男子生徒C「やっぱあいつって、何もなきゃ普通に可愛いよな〜」、男子生徒A「君も男だったりする感じ?」「君は普通に女の子だって思ってーー」といった発言です。これらの発言を総合すると、瑞希は「本当は」男である、という含意を読み取ることができます。このような含意は、出生時に男性を割り当てられたノンバイナリーや女性に対して向けられる非常に典型的な偏見であり、瑞希の割り当てが女性だった場合にはこれを解釈することができなくなるため、瑞希の割り当てに関しては男性であると考えられます。なお、男子生徒たちがなぜ知っていたのかについては、学校という制度が大きく絡んでいると考えられます。これについては後述します。

次に、ジェンダーアイデンティティがノンバイナリーであること(裏から言えば男性でも女性でもないこと)の根拠ですが、二つの側面(すなわち男性でないこと女性でないこと)からアプローチします。

まず男性でないと考えられる根拠は、イベントストーリー1話他で登場する「勘違いかもしれない」「思い込み」といった言葉たちです。これらは、瑞希の「秘密」を打ち明けたり知られたりしたときに返ってきた反応であると考えられますが、もし瑞希が「可愛いものや装いを好む男性」であった場合、このような反応が返ってくることは考えにくいです。特に、好みに対してジェンダーの規範が強くあった時代のことではなく、「人の好みは人それぞれ」という価値観がかなり広く流布した現代において、このような言葉が「可愛いものや装いを好む男性」に投げかけられるのは少し不自然です。

逆に、瑞希が広義のトランスジェンダー(つまりジェンダーアイデンティティがノンバイナリーないしは女性)であると考えると、この発言は非常にリアルな発言であると考えられます。というのも、人間はみんなシスジェンダーであるという想定を維持するために、広義のトランスジェンダーの人たちに対して、非常によく投げかけられる言葉だからです。

そして、女性ではないと考えられる根拠は、「ボクはボクでいたいだけなのに」というフレーズと、瑞希が用いる一人称「ボク」です。「ボクはボクでいたいだけ」というのは、性別によって捉えられることに対する違和感の表明であると考えることもできます。そして、それは「ジェンダーアイデンティティが女性であるにもかかわらず見た目が「十分に」女性らしくないが故に周囲から女性として扱われない」という場合でも成立するフレーズですが、少なくともニーゴの3人には「性別」について特に何の疑問も抱かれていない事実も踏まえると、このような違和感は、「男性ではないけれど、女性であるというのも少し違う」というような違和感として考えることができると思います。また、女性であると認識されるのが自然である、と瑞希が考えている場合、割り当てられた性別を推測される要因にもなりうる一人称の「ボク」を使うのは考えにくいのではないか、と感じています。

しかし、以上の女性ではないと考えられる二つの根拠は、別の仕方で解釈することもできるため、瑞希が女性である可能性をほとんど完全に排除する根拠にはなり得ません。しかし、割り当てられた性別が男性であることとジェンダーアイデンティティが男性でないことから、広義のトランスジェンダーであることはほとんど間違いないと考えています。以下では、このような前提に立って、イベントストーリーなどに対する感想を述べます。


4. 素晴らしかった点:瑞希は何に苦しんでいるのか

※※トリガーワーニング:トランスジェンダーに対する攻撃的な言葉や、アウティングの話題が登場します※※

本イベントストーリーの瑞希をめぐる描写において、特に素晴らしいと感じたのは、「他者化される苦しみ」「カミングアウトの緊張感」の2点です。これらはもちろん、これまでのイベントストーリーでも描かれてはいましたし、そのような描写を合わせて考えることはもちろん重要ですが、本イベントストーリーにおいてこの2点が顕著に表れていたかと思います。

まず、「他者化される苦しみ」について、最もわかりやすいのは1話でフラッシュバックする言葉たちです。「変なの」というあからさまに個人を貶す発言に始まり、「え……あ……そうなんだね」「あいつ、扱いに困るよな」「あー……なんか大変だね」といった「配慮」しているように見せかけて実際には「特異な人」として「特別な対応」をしようとする発言や、「あれってキャラ作りでしょ?」「目立ちたいだけなんじゃない?」「ただの勘違いかもしれないでしょ」「若い時って、そう思い込む時期があるらしいね」というように自分のジェンダーアイデンティティの正当性を疑うような発言まで、さまざまな形で周囲から「他者」(=「自分とは全く違う異質な人」)として扱われています。ショッピングモールで聞いてしまったクラスメイトの会話についても同様です。これらはどれも、トランスジェンダーに対して投げかけられる典型的な言葉です。

しかし、本イベントストーリーで描かれる「他者化」はそれだけではありません。7話で描かれる男子生徒A,B,C(以下単にA,B,C)の会話でも、瑞希を「他者」として捉えているような言葉が節々に見られます。C「やっぱあいつって、何もなきゃ普通に可愛いよな〜」は、瑞希を「何かある」存在として「普通」の自分達と対置させる発言ですし、その後のB「……おい、そういうのやめろよ……」というのは、(同級生の見た目を評価する行為そのものや上記の「対置」を咎める発言ならば問題ないのですが、)性別に「何かある」瑞希に対して「可愛い」というのは「配慮」に欠けている、と主張しているようにも見えます。もしそうであるとすれば、Bのこの発言は、瑞希を「配慮」すべき特別な存在として位置付けていることになります。その後のBの「おい、やめろって……」についても同様です。そして、A「君は普通に女の子だと思って」には言うまでもなく瑞希が「普通でない」という含意があります。全体的な態度として見ると、Aが瑞希の「性別」を「冗談」として扱う態度が特徴的です。これは、Aにとっては瑞希に対して「分け隔てなく」接する過度に「配慮」しないという「思いやり」であるかもしれませんが、こうした「茶化し」が瑞希のことを苦しめていることは過去のイベントストーリーでも描かれている通りです。

さらに、絵名に対してすらも、瑞希が「他者」として立ち現れているのではないかと思われる描写があります。 「瑞希が"本当は"男である(これは正しくない表現です)」ということを匂わされた直後、「話したいこと」はそのことなのではないかと勘付いた絵名は、普段の(=絵名にとって「女の子」に見えていた)瑞希の姿を思い浮かべます。その瑞希が「男」である(これは正しくない表現です)と知らされた絵名にとって、瑞希は「特異な」存在であるように感じられたのではないでしょうか。

それを裏付けるのが、8話の瑞希との会話のシーンです。瑞希の「びっくりしたよね」に対し絵名は図星であるような反応をしていますし、明日からも何もなかったように話してくれること、何もなかったように"思わせてくれる"ことが「どうしようもなく嫌だ」という瑞希の表明に対して、「そんな、こと……っ……」と言うに留まり、「そんなことない」と言い切ることができないでいます。こうした「優しさ」も、「他者化」の一形態であり、だからこそ瑞希はそれが耐えられなかったのでしょう。そのことを思い知らされたからこそ絵名は、「私は、なんで……!!」と悔いているのだと考えます。

以上のようにストーリー内でさまざまな形をとって描かれる「他者化の苦しみ」は、イベント楽曲『化けの花』にも描かれます。タイトルになっている「化けの花」は、セカイver.の2DMVでは5つの目が「花びら」をなした形を、ミク版ではひまわりの中心が目になった形をとっており、いずれも「私」をまなざすものとして描かれます。これは、「理解」することなくさまざまなしかたで「他者」を見る目であり、これまで何度も何度も経験してきた(=「初めましてじゃない」)ような視線です。そして、そのような視線に基づく発言に対して、自分が「他者」である以上「何も言えない」し「かき消せない」状態にあります。そのような苦悩が、イベントストーリーと合わせて丁寧に描かれていると感じました。

そしてもう一つ、本イベントストーリーにおいて特筆すべきだと感じたのは、「カミングアウトの緊張感」を丁寧に描いている点です。瑞希が自分のジェンダーアイデンティティや割り当てられた性別について「言えない」と感じていたことは、これまでのイベントストーリーでも描かれてきました。本イベントストーリーではそこからさらに踏み込んで、「言おう」と決心してもなお身体がそれを拒むように感じられる、というように描かれており、現実を非常にリアルに捉えているように感じられました。

本イベントストーリーにおいてさらに秀逸だと感じられたのは、瑞希の感じる「言う」ことへの恐怖と、まふゆの感じていたそれをパラレルに描くことで、瑞希に対してどのような力学が働いているかを明らかにした点です。イベントストーリー「灯を手繰りよせて」において主に描かれていたのは、まふゆの、父親に受け入れてもらえないことへの恐怖でした。しかし、まふゆが「言う」ことをためらっていた理由はそれだけではないと考えます。まふゆが言うのを最も躊躇したのは、「本当は、医者になりたいわけじゃない」という部分でした。これを「打ち明ける」ことは、父親とこれまで行ってきたやり取りを、そして自分と父親の関係を、根底からひっくり返すことになります。そうして父親との関係を一から作り直していくことへの恐怖が、まふゆに「言えない」と感じさせていたのではないでしょうか。

これと似たような形で、瑞希の「言えなさ」を考えることができます。つまり、自分が(広義の)トランスジェンダーであることを「打ち明ける」ことは、そのことが受け入れてもらえないかもしれないという恐怖感だけでなく、瑞希がシスジェンダーの女性であるという前提で積み上げられてきたこれまでの関係性を壊し、新たに関係を作り直していくことへの恐怖感をももたらしていたのではないでしょうか。だからこそ、瑞希は長い間「言えない」と感じていたのではないでしょうか。

言語哲学者の三木那由他さん(三木さん自身もトランスジェンダーの女性です)は、上記のようなカミングアウトのしにくさについて、以下のように述べています。

 カミングアウトがなされるまで、たいていのひとはきっとシスジェンダーでヘテロセクシュアルであることが当たり前の世界で、シスジェンダーでヘテロセクシュアルな人間と見なされて、それに合わせた会話をし、それに合わせた文脈を作り上げてきているだろう。そんななかでのカミングアウトは、「嘘だとわかっている」ことを主張したり、権利もない観客が反則を宣言したりするような行為になってしまう。それが、カミングアウトを難しくしている言語学的な要因なのではないだろうか。仮に審判に不満を抱いたとしても、観客席からフィールドに飛び出して自ら反則を宣言しようなどと思うひとがほとんどいないことからもわかるように、そうした行為は容易にできることではなく、かなりの覚悟を持って初めてなされうるものだ。でも、私たちがカミングアウトをするときには、それをしなければならない。そうでないと、私たちは自分がシスジェンダーでヘテロセクシュアルな人間だと想定され続けるし、それどころか人間は基本的にシスジェンダーでヘテロセクシュアルであるものなのだという前提を持つ文脈から離れることもできない。
 カミングアウトにまるで世界の命運がかかっているかのように感じられるのも、このためかもしれない。カミングアウトを受け取った相手がそれを真剣に受け止めるとき、これまでの膨大な文脈はまるごと解体されることになる。(中略)そして私とその相手は、もう一度そうした文脈がないところからやり取りを始める。これはもう、私と相手とがこれまで生きてきた世界をいちど突き崩し、新しい世界を作り直すようなことだ。カミングアウトを相手がきちんと受け取ってくれたなら、これまでの常識が通用しない世界を一緒に作っていける。でもそうでなかったら、私たちはもとの世界に残り続けることになる。

三木(2023)、pp. 100-101

このような視点を持ってカミングアウトの「言えなさ」について扱った作品自体をあまり見たことなく、さらにそれを丁寧に描いた点で素晴らしいと感じました。『プロセカ』のファンの中にもきっといるはずのトランスジェンダーにとって「一人じゃない」という救いになりうるのと同時に、トランスジェンダーについて全く知らなかった人に厳しい現状の一部を伝えることにもなるからです。

5. 批判せざるを得ない点

上記のように素晴らしい点が複数あった一方で、批判せざるを得ない点も複数あります。それは、主に以下の4点です。
1. トリガーワーニングの不在
2. 社会的な次元への視座の不足
3. ファンによる「消費」的な態度
4. 運営によるそのようなファンの助長

5.1. トリガーワーニングの不在

「トリガーワーニング」とは、トラウマを引き起こしかねないような事柄が話の中に出てくる時に、あらかじめそれが含まれることとを明示することです。本稿では実際に、3.や4.の冒頭で行いました。今回の場合、アウティング(マイノリティ当事者でない人が、当事者のマイノリティである部分について勝手に公開してしまうこと)がその対象にあたります。本イベントストーリー内でまさに描かれた通り、アウティングはそれを経験した本人にとって非常にショッキングな経験になり得ます。プレーヤーの中に、そのようなトラウマを抱えている人(まさに瑞希のような人)がいるかもしれないにもかかわらず、トリガーワーニングを行わなかったことは、批判せざるを得ません。

5.2. 社会的な次元への視座の不足

先に述べたように、瑞希が主に苦しんでいるのは、他人に「他者化」されることや、カミングアウトしなければならないことです。では、これらの苦しみを生み出しているのは誰でしょうか。部分的には、「否定的な言葉を投げかけた人」というのが答えになるかもしれませんが、より正確には、いずれも、「「皆がシスジェンダーである」という誤った想定のもとで社会が動いていること」が原因です。例えば、「他者化」は、シスジェンダーを「普通」とみなした上で、そうではない広義のトランスジェンダーを「異常」とみなすことであるし、カミングアウトによってこれまでの前提を壊さなければならないのは、「全員がシスジェンダーである」という前提が暗黙のうちに働いていたからです。

また、本イベントストーリーのような事態を招いた直接的な原因は、「男子生徒Aが軽率に瑞希の割り当てられた性別について話してしまった」からですが、そもそもAが知っていたのはなぜでしょうか。先にも少し触れた通り、これには学校という制度が深く関係していると考えられます。(もちろん各学校によって対応は異なりますが、)学校の名簿に登録される時には「女」か「男」どちらかの「性別」の情報が登録されることが多く、それは戸籍の情報を参照されることがほとんどです。Aの発言の内容も加味しながらそのことを考えると、瑞希は名簿に「男」として登録されていた可能性が高いです。そして、出席番号を「性別」でわける場合にはもちろんですし、制服などさまざまな実践の中で瑞希の割り当てられた性別が明らかになっていたことでしょう。だからこそ瑞希は学校では「別に隠してねぇ」状態であったのではないかと推測できます。

このように、瑞希が抱えている苦しみは、「シスジェンダーしかいない」と想定している社会が生み出しているにも関わらず、そのような視点が後景化することで、瑞希個人の(あるいは瑞希を取り巻く人間関係の)問題として誤って伝わる可能性があります。もちろん尺の不足などの制約によって不可能になっている部分もあるとは思いますが、この点は言及不足であると言わざるを得ません。

5.3. ファンによる「消費」的な態度

この点が最も問題であると考えています。YouTubeにアップロードされた①イベントストーリー、②『化けの花』(ニーゴ+KAITO歌唱版)、③『化けの花』(ミク歌唱版)のそれぞれのコメント欄を見ても、現実に瑞希のような苦しみを経験している人たちがいることを全く考慮せずに、一つの「コンテンツ」として扱っているような態度が多く見られました。

その典型的なものが、瑞希の身体に「男性性」を過度に読み込むものです。

「絵名が瑞希に追いついた時、多分抱きついた形になったと思うけど、その時絵名が「あっ………」みたいな反応したから、その間がまるで(やっぱり男の子なんだ)みたいな間で、心がキュッってなった…」(①)

「最後の瑞希の声がもう完全に少年の声って感じがして良いよな。 声優ってすごい」(①)

「こことか最後簡単に絵名の事を振り解いたり嫌でも男女の力の差を感じさせてしまう演出が残酷すぎる、、、」(①)

「奏:高音
まふゆ:高音
絵名:高音
KAITO:低音
瑞希:高音で付いて行くけど最後には全てを諦めて本来の低音
瑞希と他の皆の残酷で明確な差が歌の中に表現されててキツいけど美しい。」(②)

「何その目(芽)って意味にも取れるし、 花が咲いたら雄蕊と雌蕊が見える、男女の見分けがつくもんね…」(③)

これらは、「身体の性」という言葉の不適切さのところで触れたように、瑞希のジェンダーアイデンティティを無視して「"本当は"男性である」と述べる行為です。その点で、「若い時って、そう思い込むことがあるらしいね」という言葉や、「何もなかったら可愛いよな〜」「もしかして、君も男だったりする感じ?」という発言と同じような行為をしています。「性別」が重要なアイデンティティの一つになっている世界において、自分のジェンダーアイデンティティが否定されることは、自分の存在それ自体を否定されることです。瑞希の身体に「男性性」を執拗に見出すことは、瑞希のノンバイナリーあるいは女性であるというジェンダーアイデンティティを否定する行為であり、すなわち瑞希の存在のあり方自体を否定する行為です。さらに言えば、「身体的な特徴こそが性別である」という主張を暗に行うことで、あらゆる広義のトランスジェンダーの存在を否定する行為です。したがって、身体にのみ着目するコメントは、不適切でありよくないものであると言わざるを得ません。

また、このストーリーの「救いのなさ」絵名にとっての「正解」のなさを取り上げるコメントも見られました。

「打ち明けられた側の絵名の対応に正解が用意されてないの可哀想すぎる
ヘイト向けれるAがいなかったらと思うとゾッとする」(①)

この物語に悪者はいるのでしょうか。 瑞希が自分で自分の気持ちに気がつけばよかった? 「騙している」という意識がある以上、それは難しかったでしょう。 瑞希と話した3人のうち誰かが気が付かせるべきだった? 瑞希本人ですら気がついていないことを他人に気づけと言うのは酷でしょう。 絵名がそもそも「待ってる」と言わなければよかった? 瑞希は過去のこともあり人の顔を窺ってしまう故に気遣いに敏感ですから、絵名が話してもらいたがっていたことにはすぐ気がつくでしょう。
人は救いようの無い話を目にした時に、どうしても悪役を作りたがります。ですが世の中には本当の悪役はそんなにいません。「悪役」として担ぎ上げられたその人に共感する誰かが、自らも悪なのだと自責することの無いよう祈ります。」(①)

年齢制限つけるの忘れてませんか?って言いたくなるほどの激重ストーリーでしたね…」(①)

「周りがどう思ってても結局は自分がどう感じるかが全てなんだな
イベスト読んでから絵名はどうするのが正解だったんだって考えてたけど、瑞希自身が本当の意味で自分を受け入れて許せない限りどう反応しても良い結果にならない。人の数だけ考え方捉え方があって、どう足掻いても結局は自分の世界から抜け出すことができない。このmv見てそれを実感させられた。この捉え方自体も身勝手な解釈なんだな」(②)

これらのコメントにおいては、先述のように、瑞希の苦しみがシスジェンダー中心の社会によって生み出されたものである、という視点が完全に欠落しています。そのことによって、瑞希の抱えている苦しみや、現実において瑞希と同じような境遇に置かれたトランスジェンダーの人たちが抱える苦しみが実際にはそうでないにもかかわらず「(私たちには)どうしようもない現実」として扱われ、それによって、解消されるべきであるはずの苦しみが解消されないまま放置される、という状況が続いています。こうした態度の背景には、トランスジェンダーの苦しみは自分とは関係のない「他者」のことである、という発想があります。その意味で、上記のようなコメントは、瑞希の抱える苦しみを構成していた「他者化」の力学に加担していると言えます。

また、とりわけ絵名にとっての「正解」のなさに関して言えば、先に述べた通り、絵名はある意味で「不正解」を「選んで」しまっていました。瑞希をシスジェンダーであると想定し、それが当たり前だと考えること、そしてどのような「秘密」を打ち明けられても、瑞希が変わらない生活を送れるように「優しく」しようと考えることは、明確にシスジェンダー中心的な見方であり、その限りにおいて絵名のとった行動は「不正解」であったと考えられます。しかし、このことは今回のイベントの「悲劇」をもたらしたのが絵名であることを意味しませんシスジェンダーであることが当たり前であるという社会の「常識」や制度、空気の問題です

本イベントストーリーに「共感」したり「同情」したりしながら絶賛している上記のようなコメントは、YouTubeのコメント欄だけではなくTwitterなどでも多く見られました。このようなコメントの多くは、まさにそのコメントの中で、現実にいる「瑞希たち」を苦しめるような言葉を使っています。もちろん、現実とフィクションは異なります。しかし本イベントストーリーは、明らかに現実のある側面を参考に制作されており、その参考にされたその側面こそが、上記のコメントにあるような、トランスジェンダーを「異様なもの」として、「他者」として扱うような言動です。そしてそのコメントたちや、それらの背後にあるような態度は、今も、現在進行形で、現実にいる「瑞希たち」を苦しめ続けています。その中には『プロセカ』のファンもきっといるはずです。そのような現状がある以上、上記のようなコメントは批判せざるを得ません。

5.4. 「コンテンツ」として消費しようとする運営の態度

そして、ファンによる上記のような不適切な読解を、運営が助長してきたという点も批判しなければなりません。おそらく瑞希のジェンダーアイデンティティに関わるあれこれを「コンテンツ」とするためだけに、「性別」の欄をキャラクター紹介欄に設け4年間もの間「?」のままで放置してきたのではないでしょうか。このようなプロモーションが、「本当の性別」を推測する「考察」を助長してきたと言えます。そしてそのことは、瑞希のような境遇に置かれた現実のトランスジェンダーを苦しめる上記のような不適切な読解を、制限するどころか助長することになっています。

このことを踏まえると、広義のトランスジェンダーのリアルな苦しみを描いている点で非常に優れているイベントストーリーを公開したにもかかわらず、『プロセカ』全体としては、トランスジェンダーに対する差別に加担しているという評価をせざるを得ません。


6. 現実の「瑞希たち」を苦しめないために

前節で取り上げた4つの批判点は全て、「現実に瑞希のようなトランスジェンダーが存在している」という視点を欠いていることに由来しています。現実の「瑞希たち」を苦しめないためには、5.3.で批判的に言及したような「消費」の対象として言及する仕方に加担しないようにする必要があります。しかしそのことは、想像以上に難しいかもしれません。4.で触れたように、絵名が咄嗟に抱いた「優しさ」さえも、「他者化」となりトランスジェンダーを苦しめる要因になりうるためです。

従って、加担しないためには、トランスジェンダー当事者の置かれている現実を知ることが重要です。以下に紹介する本は全て、トランスジェンダーの置かれた境遇についてまとめた、日本語の文献です。(④と⑤については通読していないことをお断りします。)

①『トランスジェンダー入門』:トランスジェンダーとはどのような人たちなのか、どのような困難を抱えているのかなどの基本的な知識について、わかりやすくまとめてくれています。

②トランスジェンダーQ&A:トランスジェンダーの人たちをめぐってさまざまに繰り広げられている「素朴な疑問」に対して、当事者の現実に沿って回答してくれています。

③われらはすでに共にある:(広義の)トランスジェンダーによるエッセイ集です。日常の喜びや苦しみ、希望など、トランスジェンダーの人たちの生の声が綴られています。

④トランスジェンダーと性別変更:最高裁で違憲判断が出された「性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律」(「特例法」)が抱える問題について、複数の観点からそれぞれの専門家が論じています。

⑤トランスジェンダー問題:イギリスにおいて書かれた本の翻訳です。比較的硬めの文体・内容の本ですが、トランスジェンダーの人たちが置かれた現状を調査や分析に基づいて説明するとともに、社会を変えていくために必要な視点を提供してくれています。

また、以下のサイトはトランスジェンダーについての基本的な知識やよくある質問に対する回答が、わかりやすくまとまっています。

ここまでの長い文章を読んでくださったあなたが、上記のような本やサイトを読むことを通じて、トランスジェンダーの置かれている現実を知ることで、現実の「瑞希たち」の苦しみを生み出す要因が少しでも軽減されることを、強く望みます。

その上で付け加えるとすれば、上記のような現実を知ることは、「25時、ナイトコードで。」の「良さ」をより高い解像度で理解することにも繋がります。4人ともがそれぞれに「消えたい」という息苦しさを抱えながら、お互いの「消えたい」に寄り添い合って、「消えたい」と思いながらも音楽を、生を紡いでいくところに、「25時、ナイトコードで。」の魅力があるはずです。そのような魅力を受け止めるにあたって、瑞希の置かれている現実を正しく理解しないまま「救いがなくて辛い」と消費することは、奏が早くに母親と死別してしまったことや、まふゆが医者になりたいと思えないこと、絵名に絵の才能がないことを「救いがなくて辛い」とし、そこに「消えたい」の原因を見出すのと同じくらい的外れなことです。

「25時、ナイトコードで。」の「良さ」に向き合うには、メンバーそれぞれの「消えたい」の内実がどのようなものであるかを理解し、それに(自分のこととして共感はできなくても)寄り添うことが必要です。ニーゴのメンバーがお互いにそうしていたように。本心の「カミングアウト」を受けて、それまでの前提を壊し文脈を一から作り直していく必要があります。

4.で引用した三木さんは、続けて以下のように述べています。

もちろん実際にはカミングアウトは必ずしもそんなイチかバチかの代物ではなく、初めは受け止められなかったひとが徐々に受け止めるようになっていくなどのプロセスがあるものなのだが、とはいえそんなことを知りもしない初めてのカミングアウトの時、私にはまさに世界の再創造の是非がそこにかかっていると感じられたのだろう。

三木(2023)、p.101

文脈を新たに作り直していくことは、すぐにできることではありません。少しづつ、時間をかけて進めていく必要があります。これからの瑞希と絵名の関係が「元通り」になるとすれば、それはそのようなプロセスによってでしかあり得ないでしょう。自分たちのこれまでを振り返りつつ、これからの未来を見据えていくその過程は、非常に尊いものです。これから描かれるであろうそのような過程を適切に受け止めるために、私は、今、瑞希が(そして同時に現実の「瑞希たち」が)置かれている厳しい現状を知ってほしいのです。そうした理解なしに、「25時、ナイトコードで。」の物語を真に理解することは不可能であるとすら思います。もちろん、フィクションをどのように受容するかは受け手に委ねられていますが、あなたが、瑞希や現実の「瑞希たち」に寄り添うような選択をしてくれることを、強く願っています。


<参考文献>
・周司あきら・高井ゆと里『トランスジェンダー入門』集英社、2023年
・三木那由他『言葉の風景、哲学のレンズ』講談社、2023年

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