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ムーンリバーと、ハックルベリーフィン

 以前、ジャズギターの大先輩、高内春彦さんとお話しさせていただいた時に、
「俺、マンシーニの自宅に行ったことがあってさ、そしたらムーンリバーのオリジナル譜面が置いてあってさ」
と仰ってて、マジっすか、それは凄い、羨ましい、なんて話をした覚えがありますが、この曲は誰もが知ってる定番曲ながら、5度から始まりVIm上の11th、そして3小節目のIV上の増4度と動くメロディが美しすぎる、数あるスタンダードの中でも、僕の相当大好きな曲の一つです。そしてこの歌詞に出てくる、「my huckleberry friend」とは何ぞや、という話がよく話題になったりします。

この曲はオードリー・ヘプバーン主演の「ティファニーで朝食を」(1961年)のためにヘンリー・マンシーニが作曲、ジョニーマーサーが作詞を手がけ、マンシーニが歌手でないヘプバーンの歌いやすいように狭い声域(1オクターブと1音)で作り上げた、という逸話や、バルコニーで歌われるシーンがあまりに有名ですよね。だがキャッチーなメロディに対し歌詞はかなり抽象的で難しい。

 Waitin’ round the bend
 My huckleberry friend
 Moon River and me

 特にこのラストに出てくる、ハックルベリーという言葉。これは作者自身の説明が残されています。

「私は南部の河辺で育ったので、野生のブラックベリー、ストロベリー、小さなワイルドストロベリー、ワイルドチェリー、そしてハックルベリーなどが常に身近にあった。そしてマーク・トゥウェインが書いた『ハックルベリー・フィン』の名前が、『ティファニーで朝食を』のホリーに合致したんだ。ホリーはアメリカ南西部のの開拓地出身という設定だったから」

『Portrait of Johnny : The Life of John Herndon Mercer』

 と、作詞者のマーサー自身が語る通り、彼にとっては幼い日々の思い出のメタファーとしてのハックルベリー(コケモモの実)を、そして受け手側へはトゥエインの「ハックリベリー・フィン」を示唆していると言って良いと思います。ですから訳すとすれば、「懐かしい友」とか、「竹馬の友」とか、そんなところで良いと思います。

 そこまでは良いのですが、ただ、さらに一歩進んで、なぜトムではなく、ハックなのか?という話になると、途端に話は難しくなります。「私のハック」と歌う、その当の「私」とは、いったい誰なのでしょうか。普通にそれをトム、と捉えると、訳が分からなくなる。ハックがトムを追いかけているのであって、逆ではないのですから。

「トム的なもの」と「ハック的なもの」

ヘミングウェイが、「全てのアメリカ文学はハックルベリーフィンからはじまる」と書いたように、文学作品としての真髄は「ハック」の方にあるのは間違いないところですが、マーク・トゥエインがトムとハックを、ある種の人間の2つのタイプ、光と影、表と裏、と対比させていることは、「トムソーヤー」執筆後にわざわざハックを独立した物語として描き直したことでも明らかです。ハックというキャラクターが、トムと対になり形作られている以上、トム・ソーヤーについて考えることは、ハックを考えることにも繋がるはずです。それで近年、このトムソーヤーというキャラクター像について考えることが多くなりました。このトムソーヤーといういかにも主人公然とした、突飛な、しかし勇気ある果敢な行動で最後は成功を収める、というキャラクターこそ、多くの現代アメリカ人の偶像になっているとする説はよくいわれることです。しかし、この両者のイノセンスは違います。特にトムのイノセンスは単なる純朴、朴訥さとは違います。

ホリーは果たしてトムか、ハックか

そして普通に思考すれば、町社会に馴染もうとして馴染めずに逃げ出したハックこそホリーと重ね合わせるべきで、であるならホリーが憧憬を抱くのはハックではなくトムであるべきです。これがこのムーンリバーの歌詞をよく分からなくしている点です。
I'm crossing you in style some day
と歌われる「you」、或いは、「私のハック」と歌う「私」は、誰なのか。それを考えるとき、どうしても原作のカポーティが描く「ホリー」と、映画の「ホリー」のズレに頭を悩ませることになります。これは、映画版では話が圧縮され、描写が軽くなってしまっている、といった表層的な話ではありません。「映画版は軽い」と批判する人は多いですが、純粋な文学としての原作と、尺が限られまた演じる俳優の能力にも制約される映画を同じ俎上で議論することは酷だし、ナンセンスな気がします(F1カーと市販車を比べるのがナンセンスなように)。そうではなく、ホリー・ゴライトリーという人物は、一体なにものなのか。改めてカポーティの原作を読み直して見ると、そこにホリー以外の人物が「まったく描かれていない」ことに気づきます。サリー・トマトにしても語り部であるポールにしても、それらは物語を成り立たせる小道具として配されているだけで、そしてひとり、「ホリー」というキャラクターにだけ、やたら重層的な人格が付与されている。実際、カポーティは実在の複数の人物を重ね合わせてこの「ホリー」というキャラクターを作り上げたといわれています。そしてそのことが、原作の一見単純な物語に見え、だが深く考察すると霧の中に放り出されたような気分になるこの物語を名作たらしめている理由であるのかなと思ったりします。カポーティは「トム的な、イノセンス」と、「ハック的な、イノセンス」をホリーによって合体させたかったのではないでしょうか。繰り返しますが、この両者のイノセンスは違います。それを描きたいがためにトゥエインは二冊の長編を要したのですが、それをカポーティは一冊の短編に、「ホリー」というひとりの人格に無理矢理押し込めてしまった。そのことがこの名作の、「単純な物語なのだけど、なぜか、よく分からない」という重層性の鍵になっているような気がします。




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