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此岸と、彼岸。こちらと、あちら。

春のお彼岸。

ラッセラ地方も雪がじゃんじゃん消えて、ようやく春めいて来た。とはいえ、わが菩提寺はまだ堆い残雪に覆われ、お墓参りはできないけれど。

お彼岸も、お盆も、同居していた家族が亡くなって初めて身近になった。それまでは、正直、単なる季節の行事感覚だった(ご先祖様すみません)。

信仰心というものをあまり意識せずに大人になり、心の拠り所を特定の何かに求めることはなかった。核家族で、祖父母と暮らしたり、仏壇のある生活をして来なかったからだと思う。

父が亡くなった時、母が仏壇を欲しがった。

仏壇なんて形がなくても、遺影に手を合わせればいいじゃない。この先、わたしが引っ越しするとしたら小さな部屋だから持って行けないよ。

どんなに反対しても頑固な母は意見を曲げず、結局は根負けして準備することになった。ただし、毎朝のお供えやお花の水替えは母に担当してもらうという約束で。

わたしは元々お線香の香りが好きなので、辛気臭いなどとは一切思わないし、むしろ空気が浄化される気がするのだけれど、母は嫌がった。だからリビングに置こう(置いても違和感のないモダンな仏壇を選んだ)というわたしの意見は却下され、仏壇は冬には暖房もない寒い客間に置くことに…。

子どもの頃、父や母の実家の仏間は客間にもなり、泊まった時に、壁にずらりとかかったご先祖様の遺影に囲まれて寝るのが怖かった。普段使わない部屋というのはひんやりしていて、それでなくとも特別な雰囲気がある。

さて、仏壇が来たわが家では、ほどなくして、当の母がお供えや水替えを億劫がるようになった。やがてお花は造花になり、供えた冷やご飯を毎日食べるのがつらくて途絶えがちになり…。

だから、形から入らない方ほうがいいと言ったのに。

それから10年を経て、仏壇は母が終日を過ごしていたリビングに鎮座している。毎朝灯明を灯し、お線香をあげ、おりんを鳴らして、手を合わせるのはわたし。お花は基本プリザーブドフラワー。お供えは食卓のお裾分け。

母が仏壇を欲しがったのは、こうして欲しかったからかな。仏壇の存在感があり過ぎて無視できないw。

毎朝起き抜けに、カフェモカを沸かしながら、仏壇の前で遺影に話しかけている。でもやっぱり、この先引っ越す時には持って行けない大きさだと思うんだよね…。

仏壇の遺影と、歴代の愛犬の遺骨に見守られながらのお彼岸3日目。

いまも心の拠り所が何かはわからない。でも、家族との思い出と、風くんの音楽に救われている。ここに無いもの、形の無いものが支えになっている。

こちらとあちらを橋渡ししてくれる、目には見えないものを感じること。お彼岸だし、いつも以上に心を研ぎ澄ませていよう。








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