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あ、永遠、じゃないかw。

晴れ〜ハレ、ハレェ〜、エエェ〜♪ 

清々しい水色の空が広がる津軽。氷点下までキリッと冷えて、シャキーンと身が引き締まる。

ゴミ出しに出たら、うっすら積もった雪の上に、ニャンコの足跡。晴れて穏やかな朝なので、ぐるっと家の周りをパトロールしたみたい。おデブのあのコかな。時には堆い落雪をよじ登って屋根の上にまで足跡を残して行く。

意味があるようなないような縦横無尽の足跡を見て、つい笑ってしまう。あのコはどこのうちのコなんだろう。わが家に辿り着くまでの足跡を追ってみたけど、途中でわからなくなった。

愛犬の一周忌だった昨夜、愛犬ではなく、母の夢を見た。まぁ、母の月命日でもあるから。

先月、母の一周忌の日に、母の故郷の宮城に行った。だからだろうか、夢の中では母と一緒に旅をし、食事ができる場所を探し回っていた。どこも満席だったり、嗜好に合わなかったり。ようやくお店で席に着けたものの、疲れ果てた母は食欲を失っていた。その店には美味しそうな料理がなかったし。

コロナ禍での看取りゆえ、母が感染しやすい持病を抱えていたこともあり、平時以上に家族への制約が多く、いろんな後悔ややり残したことがある。食事もそのひとつ。ただ命を存えるためだけに栄養を摂取するのと、食べたいと思える物を口に入れて飲み込むのは別次元のことだと思う。

目が覚めた時、母を促して押した背中の温もりが手に残っていた。

時々、母の箸で食事をしている。母の代わりに食べているつもり。母も、愛犬も、もう触れることはできなくなってしまったけれど、今はわたしの内にある(気がする)。

お寺さんでの母の法要の際、ご住職と初七日、四十九日、一周忌、三周忌…と区切って法要を行う意味についてお話した。本当に必要ですか? 何のために? 誰のために?

かなり失礼で不躾な質問にも、ナチュラルに、丁寧に答えていただいた。お寺の存在意義に関しても話したし、愛犬の供養についても訊いてみた。

一人で考えていると堂々巡りになってしまうことに、答えをもらえる安心感。日々、多くの死に向き合っている方の言葉に、心が少し軽くなる。

信仰心とは無縁だと思って生きて来た。でも、心の内に、とことん信じられるもの、愛しいもの、決して忘れることのできないものがあったらうれしいと、最近思う。わたしにとってそれは、失った家族たち。姿形がないからこそ、常にずっとそばにいてもらえる。

去年の夏、一羽のカラスが電線に停まって、庭で草取りをしているわたしにカァカァと話しかけて来たことがあった。何分間もしつこいくらいに。王子と同じ黒いボディの君は王子のお遣いなのかい? 「元気か」と尋ねているのか、「元気だ」と伝えているのか…。

本気でそんなことを考えてしまうくらいw、いつもそばにいて見守ってもらえている気がする。まぁ、そう思うことで、心を強く保てるし。

愛犬は窓辺で日向ぼっこをするのが大好きだった。ただ、気持ちよさそうに寝転がっていても、来客の気配があるとすぐに飛び起き、ワンワンと番犬センサーを発動する頼もしい相棒だった。

ところが、件のおデブ猫さん(わが家の庭にでっかいブツを残して行くふてぶてしさもある)が、窓辺のデッキを悠々と歩いて通ってもなぜか反応しない。散歩中に猫を見かけるとすぐに追いかけようとする彼なのに。まぁ、老いて嗅覚が鈍ったこともあるだろうけれど、テリトリーに入って来ても許せる存在だったのかな。

そういうわたしも、彼女(発情期に賑やかなのでおそらく♀)がまだ元気でパトロールしているとわかって、ちょっとほっとする。わたしたちよりずっと短い命の彼ら。どこかの家で愛情に包まれつつ、自由に闊歩していることを願う。

目に見えないもの、この手で触れられないもの、それでも存在を感じられるもの。失ったことで永遠になるもの。わたしの命がある限り、わたしの中にみんながいる。あ、わたしという容れ物がある期間限定だから、永遠、じゃないかw。






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