初乗り運賃で手に入れられる幸せを共有できはしない話

例えば、タクシーの運転手さんに、

「あなたが一番幸せだった場所へ連れて行って欲しい」

といいたい。辿り着いたその場所で、けれど、そこがどんな思い出なのかは聞きたくない。他人の幸せなんて糞食らえだと思っている。ただ、その人にとって幸せなその場所が、自分にとってはくだらない田舎道だったり、埃っぽい路地裏だったり、変哲も無いビルの屋上だったり、シャッターだらけの商店街だったり、そういうものであってほしい。

例えばあの空き家だらけの集合団地の一号棟。

402号室前の階段の踊り場が自分にとっての幸せだったみたいに。そこから見下ろした駐車場の白い白線が愛おしかったみたいに。

そんな風に、誰かの幸せも、誰かの愛したものも、しょうもなく、寂しく、誰にも理解されず、儚く、尊いものであって欲しい。

そして、そんな幸せを、誰かと分かち合えたりはしないのだ。


最近、先輩が立て続けに結婚をした。ゲーム仲間だった6つ上の先輩は、結婚式の四日後にこんな話をした。

「同期にさ、式の日にな。お前も普通の幸せを手に入れたなあ、って言われたんやけど。なんかちょっとイラッとしたわ。」

「普通の幸せ、にですか。」

「そう。たしかに働いて結婚して子供授かって、車買って、家買ってって、まあ一般的な流れやし、俺もそうなると思うけど。でも普通の幸せってなんやねん。特別な幸せってじゃあなんやねん。って、おもたわ。」

「たしかに。ちなみに、普通以下の幸せが何かも知りたいもんですね。」

その先輩の同期が、何をもって特別と普通を判断したかはわからないけれど、そして、普通の幸せと、いい意味で、お祝いの意を込めていったのかも知れなくとも、果たしてそれがどんなものなのか共有することは難しいだろう。実際、普通で、有り触れた幸せなんて、わたしにもわからないし、わからないと言うことは、私には存在しないと言うことだ。

日々生きていることを幸せに感じられる人間はそんなにいない。三食ご飯が食べられることを幸せに思える人間はそんなにいない。毎日布団で寝れることを、友達がいることを、幸せだと思える人間が、この日本に、今どれくらいいるのだろうと思う。

少なくとも、私はそう思うことは出来ない。それを幸せとは呼ばない。日々生きていて、それでも生きる意味を考えて、何も見出せなくなってしまうし、寝付けなくてどうしようもなく、乗り越えられない夜はあるし、ほんの些細な悪意にも満たない何かに怯えなきゃいけなかったりする。

生きているだけで、幸せよ。

もっと酷い生活だってあるよ。

なんて、そんな綺麗な人間にはなれない。


「あなたが一番幸せだった場所へ連れて行って欲しい」

と言って、タクシーの運転手さんが、河内長野のレコード屋に連れて行ってくれたら良い。学生の頃に初めてレコードを買った店だったりしたらいい。スーパーファミコンを父親と並んで買った電気屋でも、鉄棒を練習した公園でも、一番好きだった彼女に振られた校舎裏でも、駅前のたこ焼き屋台でも、オフィス街でも、取り壊された実家の跡地でも、故郷によく似た景色の道路脇でも、一度も行けなかった甲子園でも、デパートのフードコートでも、主役ではなかった結婚式場でも、通学路でも、本なんて大嫌いだけど彼女が好きだから通った図書館でも、マクドナルドでも、自宅でも、階段の踊り場でも、駐車場でもいい。

私が知らない場所、知らない時代、知らない人、知らないタクシーの運転手が、幸せだった場所だと良い。他人の幸せが、私の知らないなにかであってほしい。同時に、私の幸せが、誰にも理解できないものであればいい。

当たり前に幸せなんてない。有り触れてなんていない。よくある幸せなんてない。道端になんて落ちてない。勿論、

普通 の 幸せ なんてない。

ふとした時のある一点にしかない。だからこそ、愛おしいのに。


幸せが、誰にでも平等にあってたまるものか。
人と分かち合えてたまるものか。
だから私は抱きしめて、大事にしまっているの。
それを、わかった気になられて、たまるものか。


他人に、何も知らない他人に、
「幸せで良かったな」だなんて、
「幸せそうだね」なんて、

そんなこと言われてたまるものか。

そう言えれば良かった。結婚式を終えたばかりの先輩に。少し苛立つ先輩に、

「幸せが、他人に推し量れてたまるものか」

と。


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