わたしはこれでいいという責任

関東に来てからちょうど1年ほど経った。正直自分の中でよくなったもの・改善したものはないが、私の周辺について記述する。


いろいろあるけれど好きな人と過ごす時間は良い。
これだけは言える。これからもこんな感じで1日寄り添って、また1日寄り添ってを繰り返したいと思う。

実家と(物理的な)距離を置いたことで、家族環境は良好です。たまに連絡を取ってくらいの。これは良かった。
私はこの生活を維持する必要性を再確認した。

 某乳酸菌飲料を風呂上りに飲むようになってから精神がどん底になる回数がぐっと減った。ありがたすぎる。大学時代の私に教えてあげたい。
最近、「老い」が自他ともに怖い。具体的には、自分が死ぬことより、周囲の人が先に死んでしまった時の「別離」が怖い。以前も書いた気がするが、「別離」を受け入れることに耐えなければと思うし、何もない私にできる最低限のプライドとして、本当に生きていけない現状になるまで命を粗末にしないことだと思い至った。そして源氏物語をあらためて読み、出家という新たな選択肢に気づいた。ユートピア思想なんぞもう私の中にはない。
自分の人生を直視できる強さがあってよかった。

心に余裕がないと、電車待ちの列で横入りする人へイライラしたり、ながらスマホでホームへ続く階段や細い通路を歩いている人にもイライラする。
イライラすることも怒ることも疲れる。
つまり、現状ほぼ毎日勝手に疲れる。
はやく心の余裕をキープする技を身に着けたい。


 ここ数年から最近までで世界と周りを取り巻く環境の変化は恐ろしい。今年の秋にもさらに物価は上がるといわれているし、今日は世界で累計5億人が件の病でこの世を去っていると電車のニュースで見た。2020年の世界の総人口は約80億人。前者は累計なので現在の数と照らし合わせることは条件が違うにしても、わかりやすく例えると死者は現在の世界総人口の10パーセント弱ということになる。
 ウクライナで今この時に起こっていることも考える。
自分たちのルーツをたどると、他人ごとに感じることができない。
 何もできないからと言って考えることを放棄したくないし、私は考える人が好きだ。
私は自分が好きな人になりたいから、考えることも自分の意見を持つことを放棄しない。


 この国の人は本当に文章や本を読まなくなってしまい、事細かに詳細を書き連ねなければ理解できない人、そもそも自分の思考が飛躍しすぎてしまい情報に意味がない人それらを見て辟易してしまう。疲れる。言葉が作り出した読み手への余白には意味がある。条件描写が詳細であるからこそ固定されてしまう不自由な空間のこと。僕たちをひきつけるものがそこに隠れていたりするのに。

 わたしは今の仕事をしていて、言葉の責任については常日頃考える部分がある。
 私たちにはそれぞれ社会的な立場がある。表現の自由もある。私たちは言葉を選ぶし、本当のことを言う場所も選ぶ、選べるから。
言葉が紡ぐ人によって温度や色が変わるのは、己を構築するものが全員違うからだ。自分の言葉が与える影響だってそれぞれ違ってくる。そして受け取る側のパーソナリティによってその言葉の最終形態も変わる。与える影響について考慮すると、発言というものが責任が生じることが理解できる。

 空気を読めとかそういうことじゃなくて、自分が責任持てないことするのだけはやめろと言いたい。ただそれだけ。
 大事なことを言う時に、責任を持つだけの熟考とソースがあるのかを1度考えるべきだということ。批判と批評が違うことを忘れない。
 

他人に強制はしない。そこに怒りも悲しみもない。許す許さないもない。
心の中ではそういうことを考えながら、無意識に人を選んでいる自分がいるだけ。私はそれでいいと思っている。

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