ここで言うべきことではないかもしれないが/美術

上記の記事を読んだので書いておく。(但し個人の一時的な感想である)
「美術館女子」の意味、美術館および美術の宣伝としての記事について。

「美術館-女子」とは?

美術館とは、「美術品を収蔵し、鑑賞、啓蒙、研究のために展示する施設」である。女子とは、「おんなのこ、女性」のことである。
この二つの単語を接続する言葉がないため、「美術館で作品を鑑賞する女子」「美術館の中にいる女子」「美術館で女子を見る(?)」なのかそれ以上なのか、あやふやである。そもそも造語であるようだから、当該の記事を読まなければならない。

とりあえず読む

メンバーが各地の美術館を訪れ、写真を通じて、アートの力を発信していく。(p.2)

アイドルが美術館を訪れ、(作品というよりは、そのアイドルがその場にいる)その様子を写真に収め、それを連載することで「アートの力」を発信する、という企画のようである。つまり、強いて言うならば、「美術館で作品を鑑賞したり、美術館の美しい空間にいたりする女子を見る」であろうか。

アート作品と共演する
映え写真、いっぱい撮れるかな?
映えスポット(p.4~5)

なんとなく、意図が見えてきた。美術作品の前の空間を「映え空間」として、自ら(アイドル)を演出し、自ら(アイドル)を作品とする(これを裏付ける文面は今後登場する)。やはり、この企画において重要なのは被写体のアイドル、および「アイドルの美術鑑賞」ではなく、「アイドルの写真」である。

作者はどんな気持ちでこの作品を作ったのか。どんなメッセージを込めたのだろう(p.6)

鑑賞していた本人がこの文を書いたのかは不明だが、この態度は別に驚くものではない。

アイドルではなく、“作品”として(中略)今までと違う自分がそこにいた(p.6)

これには驚いたが、先ほどの疑問に対しての答えではないことは理解できた。(参考までに、わたしが思う「作品」は、「一人の人間が個人として自己表現するもの」「時間をこえて個人が対話できるもの」としている。2020年6月15日現在。)

7ページ目も彫刻の前で写真を撮っているが、やはり作品の2~3割が人物と被っている。このあたりでもう「作品を見るための写真ではない、作品を見る彼女を見る写真ではない」と明確に理解できる。

作品に囲まれて写真を撮れる。こんな贅沢な経験ってなかなかないです(p.8)

確かに。美術館内でこんなに写真を撮ることを許可されているのも珍しいのではないだろうか(少なくとも、わたしの乏しい経験内では)。美術館側が普段より広い範囲で許可を出しているのだろう。
写真を撮ることができなければどう思うのだろう、などと思う。

12ページ目、びっくりした。びっくりする。アートの力を発信しようとしている。なるほど。

これまでそんなに美術館に遊びに行ったこともなければ、絵画に詳しいわけでもない
芸術って難しそうだし、自分に理解できるのかな(p.13)

わかる。それでいいと思う。そうでなくてはならないとまで思う。美術館をあるグループのテリトリーにしてしまうと、衰退しかねないのではなかろうか。ニワカであろうがオタクであろうが、美術館は否定しない…勝手に、個人的に、そうであってほしいと思っている。故に、この企画は(ネーミングがアレだが)方向や挑戦としては悪いものではないのではないか…などと考えていたが…

館内に展示された世界的作家の作品はどれも圧倒的な迫力で
知識がないとか、そんなことは全然、関係なし。見た瞬間の「わっ!!」っていう感動。それが全てだった。(p.13)

まず前者に触れる。彼女、言い換えればこの文を書いた人は、目の前にある作品よりも、他人たちが評価した「世界的作家」という情報を味わっているのではないだろうか。つまりは、他人の付けた作品の価格などを気にするアレと同義の行為であるのではないか。その鑑賞方法はどうなんだ、とわたしは思っているが、思っているだけである。
後者はとても興奮した。わたしは美術に向いていない(と思っている)ため、目で見る絵と同じくらい、いやそれ以上に、その作られ方などが気になってしまう。しかし彼女、この文を書いた人は、「目の前にある作品を感じて」いる。それがすべてなのである。
「知識を得ようとしない」のは少し疑問に思うが、「知識がない」ということを否定はできない。そして彼女やこの文を書いた人は、『作者はどんな気持ちでこの作品を作ったのか。どんなメッセージを込めたのだろう』と考えている時点で、知識を得ようとしていないわけではない。
別段、彼女やこの文を書いた人の鑑賞態度を、否定または肯定したくてこれを書いているわけではないため、若干脱線した。以降もそうした脱線(というか繰り返し)をしかねないため、そろそろ本題に入ろうと思う。

美術館女子?

この記事がSNS、もとい私の周りでボヤ騒ぎになってしまったのは、この「美術館女子」という単語のせいであると思う(わたしが疑問に感じているところとはまた別の点である)。正直、私も当該の記事を読むまでは、「また性別でくくってるんですか!?」とびっくりしていた。
美術館において、性差がどこに現れようか?もちろん、体の作りが違ったり、それに伴ってものごとの捉え方が少々異なるのもあり得る(わたしは体の性別は一つしかもっていないため、他方からの見え方はわからないし、異なるとも同じとも言い切れない)。
しかし、そもそも、個人的見解に則れば、作品は個人のものなのである。あれはダメだとか最高だとかを集団に/集団で押し付けるのは、個人的見解に則れば、少々ズレた話なのである。ついでに、この記事が表したかったのも「美術館における性差」ではなかった。では何であるか?
「美術館にいる女子」、鑑賞者(もしくは美術館外の第三者)による、鑑賞者の鑑賞だった。美術館にある作品の前の「映えスポット」に立つ、映える女子。
かくいうわたしも恥ずかしながら、「マルセル・デュシャンと日本美術」展で鑑賞している人たちばっかり見ていた。便器(『Fontaine』1950年・レプリカ)をまじまじと見る人、その値段の話をする人、撮影可能な作品を一枚ずつ撮っていく人、やたらたくさんある本人の写真を見まくる人…(一番最後には少しだけ身に覚えがある)。もちろんこれ以外にも鑑賞する人がおり、わたしはだれを否定する意図もない。人がコンセプチュアルアートを、美術をどう鑑賞するかが見たかったのである…鑑賞方法がわからなかったため…
私が見ていた「美術館で鑑賞する人」と、例の記事が定義した「美術館女子」はどう違うのか、どう同じなのか。
まず、「美術館で鑑賞する人」は、自分が作品にされる対象であると(おそらく)自認していない。作品になるためではなく、美術作品を鑑賞するため(もとい美術作品を美術作品とするか否かを判断するのは鑑賞者であるが)に美術館へ赴いている。必ずしも「誰かと共に」行くわけではなく、そして必ずしもその誰かに鑑賞されるために行くわけではない。
そして、今回定義された「美術館女子」は、作品にされる対象であると自認している。作品になるために、また美術作品を鑑賞するために美術館へ赴いている。26ページに「美術館デートコーデ」と記されているように、あくまで「誰かと共に」美術館へ行くのである。美術作品を背景・風景として。美術館の作品を見るのではなく、そこで撮られた写真を鑑賞する。おそらく特殊な「美術館での」鑑賞方法である。
「美術館女子」のボヤ騒ぎの根源には、単語の齟齬があった、もとい齟齬が起こるような言葉遣いがあったと思わざるを得ない。そして、この単語は一部の人々の間でまた意味を変え、ある種のレッテルとして姿を変えることも予測できる。
故に、記事を読まずに、単語の「感じ」だけで拡大解釈をすることは恐ろしい。「美術館にもともと通っていた女性をひとくくりにする」「美術館に性差はない」と言うのは間違ったことではないと思う、が、もともとの記事が定義した意味とは異なる受け取り方であり、そして記事作成者の言葉の一般化による齟齬なのではないか。(しかし、ものの記事のタイトルというものが、センセーショナルなほうが興味・関心を引くのは事実なのである…)

背景としての「美術作品」

写真群からは、「美術作品を背景としたポートレイト」という一貫したテーマじみたものを感じた。視覚的に美しく、空間を演出する美術作品・美術館を背景とした、ある種コラージュとも思える写真。(写真に写った)絵画は、その手前の三次元(現実)にさえぎられる、というような…アートの力がここに潜むのであれば、わたしの経験が浅いから気付けないのだ。
個人的見解として、インスタグラムをはじめ、美しさ・良さを所持するのがステータスとされる社会(SNS)が形成されていくと、自分の制作したものではなくとも、自身のステータスとされる、網膜的な風潮が現れていくように思える。作品ではなく、ひとのアクセサリー、背景としての、対話を持ち掛けられすらしない「もの」。対話すらもしなければ、もはやそれは美術作品ではなく、目に気持ちいい光でしかない。全くの個人的見解で言うならば、であり、これは真実ではなくわたしが信じているものごとの一つである。

これほど贅沢な“映えスポット”があるなんて、どれほどの女子が知っているだろう
新たな自分を引き出してくれる魔力(p.22)

こういった感想も何も悪くないのだ。ここで、「美術は映えスポットの穴場ではない」「美術作品は道具ではない」などと仰ると危険信号だと思っている。まずは映え、やがて知識を得るべきと考えている。新たな自分を引き出してくれた「もの」がどんなものなのか、対話がここから始まるのだと考える。

『どんな作品になるのか、できあがりが楽しみです』

テーマを読み返しておこう。
『各地の美術館を訪れ、写真を通じて、アートの力を発信していく』。何度も言うようだが、「アートの力を発信」するという意図で制作された記事である。映えるスポットとしての美術館を紹介する企画ではなかったのだ。その齟齬が、このもやもやとした感じを生み出している気がするのである。
そもそも、「アートの力」は信じていない人にとってはわからないもの、かつ、「アートの力」は本来、「作品⇔個人」間に発生するものであると考えている。もしもこの記事がアートの力を発信するならば、それは「今回の写真集(作品)⇔個人」間のものであり、この記事を読む人は、美術館に収蔵されている作品とは干渉関係にない(もしくは「間接的に干渉している」)と考える。
まとめると、「美術館女子」が本来は某新聞社の企画のローカルな意味であり、二転三転して違った意味になっていくのではないか、ということ、美術館は人を見る場所ではなく作品と個人が対峙する場所(反省します)ということである。あと「美術館に映えを狙って来るな」というのは違うんじゃないかということ。もちろん(個人的に)美術館に映えだけを狙って来るのはどうかと思うが、そこで糾弾するのではなく、きちんとそこから知っていく、という階段の用意と、それを上ろうとする意志が必要なのではないかと思う。

何度も書くようだが、あくまで一時的な個人的見解に過ぎず、これが真実だと言っているのではなく、わたしはこうだと信じているだけである。視点の拡張に役立てていただければ幸いである。

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