元日本語教師の愛と勇気と情熱という名の才能。

私は今、宅配屋の仕事で飯を食べています。9月から新しい職場(エリア)へ異動し3週間、すっかり慣れました(^^)/ きついというイメージが付き纏う宅配屋ですが、求人を見ていた2月当初、自分にも出来そうだな・・という思いで応募しました。直ぐに採用が決まり1か月間は会社の車を借りて任されたエリアを走りました。細い道や坂道が多く更には4階5階まで重い荷物を持ち階段で上がるのはきつかったですが、給与は日本語教師の時より10万円多く「おぉ‼」と思ったものです(笑)半年間そのエリアを走り、仕事を一通り覚えたところで社長から自宅から近い支店のエリアに空きが出たから行ってみないか?との話をもらい詳細も聞いたところで快諾。そして9月を迎えたのです・・。

4月に自家用車を買い替えて、今は自分の車(軽バン)で仕事。快適です(^^)/ローンは5年払いでコツコツ返していきます(余談)。

宅配の仕事を始める今年1月まで私は日本語教師でした。専任講師との折り合いが合わなくなり退職の道を選択。悔しい想いでした。小さな母体の専門学校の開設されたばかりの日本語学科。コロナで入国が遅れた留学生を成田空港まで迎えに行く仕事からスタートした職場でした。非常勤講師含む先生たちは(9割女性)皆明るくコミュニケーションが活発な職場で、私は社会に出て初めて「自分らしく」「素の状態」で職場に居られました。留学生と接していくうちに自分自身も磨かれ同時に心が高まっていくような効果も感じました。しかし少しのミスで仲間(女性講師)との間に亀裂を作ってしまい「嗚呼、これは(私一人では)修正不可能だな・・」という気持ちとなり退職となりました。10年続けた日本語教育業界には感謝しかありません。恨みなど毛頭無いです(笑)待遇の悪さや肩身の狭い思いも今、違う業界から遠目で日本語教育の現場を振り返り俯瞰する事が出来ています。何より私はTwitter(現X)で世界中の先生方と繋がっている誇りを胸に今も生きています。時に新聞を賑わせる日本語教育や多文化共生の記事に私の思いも付け足しツイート。10件以上の反応を貰う事も屡々で業界を辞めた後も何か自分が役に立てる事があれば・・と思っています。外国人学習者のサポートは引いては日本(国)を救うと本気で考えているから今も心の中で情熱は燃やしています。Twitter(現X)での繋がりに私も助けられ情報交換、時に冗談交えたコミュニケーションが楽しいです。アンケートではTwitter(現X)を情報収集の為使用していると答えた人が半数おりました。私は同時に多くの先生とのコミュニケーションツールとして活用しているわけです。

宅配屋となった当初、自分が変わっていくのが(自分で)わかりました。怖いくらいに・・。業界も職場環境もガラリと変わったのでこれまで自分が大切にしてきた想いやモノが失われ喪失感さえ感じた日もあります。只、宅配の仕事は基本一人。9割男性という職場環境。9割女性の日本語教師の世界と180度変わった為、ある種の怖さも感じました。しかしながら毎日宅配先のお客様に「ご苦労様!」「ありがとう!」の言葉。時には飲み物やお菓子まで「持って行って!」と言う優しさに触れ自分自身が等身大の自分へと変わっていったのです。恥ずかしい話、私は若い20代の頃、自分を見失った期間が長くありました。何をしたいのか、自分で自分をコントロール出来ていない期間で長く苦しみました。悪いことは重なるもので時代背景にも恵まれませんでした。自然災害、不景気、そしてコロナ禍へ。私に転機が訪れたのは34歳の時、隣町の市民センターで日本語教室が盛況!という地元紙の記事を読んでから直ぐ土曜日の夕方行われる教室に飛び込んで行ったのです。外国人と触れ合ってみたいという関心は海外出張が多くあった親父の背中を見てきた為、子供の頃からありました。自分も将来は親父のようになるのだろうと・・37歳の時、会社を辞め、日本語学校に転職。転身したわけです。留学生との触れ合いが自分の人生まで豊かにしてくれるとは嬉しい誤算でした。2018年にはTwitter(現X)を本格的に始め、偶然にも日本、世界各地の日本語教師の方も始められたようで繋がったのです。私の人生は好転していきました(^^)/

第2弾、あるかな・・?(笑)

今日はおしまい(^^)/

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