見出し画像

「物語を消費する」ことへの痛烈な問いかけ Fate/GrandOrder Cosmos in the Lostbelt No.6「妖精円卓領域アヴァロン・ル・フェ」 感想【後編】


「王道的RPGというお伽噺」という巧みな群像劇


前編に続いて、Cosmos in the Lostbelt No.6妖精円卓領域アヴァロン・ル・フェ(以下、アヴァロンルフェ)の感想をしたためていきたいと思う。

このアヴァロンルフェは、奈須きのこ初の壮大な群像劇であり、お伽噺を主題にしたひとつの王道的RPGである。


「主人公にスポットを当て、それを取り巻く人々という見方で脇役を描くスタイルの劇ではなく、登場人物一人一人にスポットを当てて集団が巻き起こすドラマを描くスタイルの劇のこと。」(weblio辞書-群像劇-より)


群像劇とはなにか。辞書的な意味ではこういった意味合いになる。

オタクに馴染みのあるタイトルで言えば「デュラララ!」や「SIREN」などは有名なのではないだろうか。


奈須きのこ氏はこれまでアクションゲーム、RPG、ソーシャルゲーム、アニメなど様々な脚本を手掛けて来たが、その作品の中でも今回のシナリオは非常に独立性とその強度が高い。しかしながら、多彩なキャラクターが数多く織りなす中で群像劇の手法を取った作品は今まで存在していなかった。


プロローグがまるきり遠坂凛というヒロイン視点であり、幕間で他のキャラクターの視点が入るなどの手法から最も群像劇に近いと呼べるものは「Fate/stay night」ではないかと推測するが、主人公・衛宮士郎視点の膨大なテキスト量、そしてシナリオの方向性を考えると群像劇と呼ぶのはあまり相応しくない。奈須きのこ氏の執筆ではないがFate関連のシリーズではFate/zeroやFate/Apocryphaが代表的だろう。


説明の通り群像劇とは数多くのキャラクターとその視点が必要になるため、非常に制御が難しい。そしてテキスト量が膨大になりがちである。

序盤に「このブリテンには6つの氏族と、その氏族長が街を収めていて……その氏族長はどういう人間で……」という説明がなされ、これまた今作初の「調査メモ」システムの説明がされたとき「こんな人数用意して書いてたらそりゃ長くなるわ」と思わず笑いながらため息をついてしまった。事実、ちょい出しの出演などのケースを除けば、現時点で配信しているゲーム内のシナリオで最も登場人物が多い話になる

南米のロストベルトがここまでキャラクターが増えるようには個人的に思えないため、下手したらサービス終了までこの話は最多キャラクター出演シナリオの可能性すらある。


アヴァロンルフェは、物語の序盤から相棒であるマシュと別行動になり、断章としてマシュ視点の物語が展開される。その他にもベリルにシェフィールドの情報を売るウィンキーや、主人公と戦った鏡の氏族の生き残り・ポーチュンが何者かの攻撃で命を落とすところ、城での内乱の顛末など「主人公の知らないところの情報」が数多く描かれている。なおかつ、必ずしもその情報は主人公・藤丸立香ならびにカルデア側が認識するところではないというのも話の肝だ。


この群像劇としての作劇が最もうまく作用しているのは、やはり「戴冠式」からの流れだろう。

ノクナレアの毒殺を口火に、妖精國ブリテン各地の妖精が一斉にモース化してしまう。主人公たちはなし崩し的に事態に追われるが、主人公たちは「ノクナレア毒殺の犯人」「牙の氏族の大多数が既に命を落としていること」などは知る由もない。そんな中で各地の氏族長やついに予言通り来た厄災に対してのシーンが挟まれ、それぞれの思惑が強調される。


「マイクは大丈夫だろうか」

「それを言うなら動けなくなっていたハベトロットは」

「バゲ子は無事か?」


様々な不安を抱えながらもアドベンチャーパートが終わり、プレイヤーを出迎えるのは、これまで歩いてきたブリテンが真っ赤に焼け落ちた様相。

実にショッキングな光景である。

厄災の予言という滅びを極限まで引っ張ってこの鬱積したエネルギーが爆発しているのは、わかりやすいカタルシスだ。


閑話休題、オーディンスフィアの影響について


閑話休題だがこのアヴァロンルフェの全体の雰囲気の引用元と思われる作品がある。2009年にアトラスから発売された「オーディンスフィア」というゲームだ。以下、その作品の話なので興味無い方は次の項目まで読み飛ばしてください。


「オーディンスフィア」はその名前の通り、北欧神話をモチーフにしており、妖精、ドワーフ、人間、様々な種族が住まう舞台エリオン大陸で読まれた「終焉の予言」5人の主人公たちが交差し織りなすRPGである。

モチーフ元が北欧神話ということで、既にピンと来ている方が多いかと思うが、この「終焉の予言」に読まれる終焉とはとはラグナロクのことである。

このnoteを読んでいる方はみんなLB2を読まれた方なので説明は不要かと思うが、ラグナロクとは北欧神話における終末の日で、人間どころか全能の存在である神々にも黄昏が訪れる……という、ファンタジーや神話が好きなオタクには馴染み深いが、こうして改めて認識すると結構衝撃的な語句だ。


さて、オーディンスフィアで読まれた「終焉の予言」はどういったものなのか、ついでに紹介させていただこう。


絶望の獣は人を喰らい 希望を砕く
枷の外れた死の狂乱は 生命の光を弄ぶ
荒れ狂う紅蓮の進軍が 玉座の周りを焼き払い
絶望を吐き出す大釜に 大陸の古き血が煮えたぎる
最後の竜レヴァンタンが 血の石を飲み下せば
道は閉ざされ 虚無が世界を覆わん


……なんだか聞いた事がある要素が多いと思うだろう。大まかな部分は違うが、獣や竜の災厄を予言している部分は重なりを感じないだろうか。

「偶然重なっただけだろ!」と思う方がいらっしゃるかと思うが、奈須きのこ氏は「オーディンスフィア」を開発したソフトハウスメーカー、有限会社ヴァニラウェアのファンである事を公言している。


僕はTYPE-MOONの作品が好きな方は絶対ヴァニラウェアさんの作品も好きになるはずだと思っています。だからこの対談を読んだ方に、神谷さんの作品に触れてほしいんですよ。


奈須きのこ氏の作家性のひとつに、ご自身の好きなものの影響をおくびもなく作品に出す点があると言える。これに関しても、両方やった人間からするとかなりピンと来る描写の数々で、奈須きのこ氏のヴァニラウェア愛にニヤリとさせられた。

もっと言うとヴァニラウェア最新作「十三機兵防衛圏」の影響も多大に受けていたが、こちらに関しては作品の根幹に関わるネタバレを含むため、この感想での言及は自重しておく。

LB6はこれらの奈須きのこ氏が愛してやまないゲームたちを引用しながら、しっかりと一つの話にまとめあげた愛と手腕にただただ驚嘆するしかない。


もし仮にこれを読んだ貴方が「アヴァロンルフェを記憶消してまたやりたい」「アヴァロンルフェのような衝撃のゲーム体験をしてみたい」と思っているのであれば、「オーディンスフィア」「十三機兵防衛圏」は間違いなくその期待に応えてくれるだろう

だんだんヴァニラウェアの話をしているのかFGOの話をしているのかわからなくなってきた。
のでこちらの項目は切り上げます。でも次も結構他の作品の話するからごめんなさいね。



物語被造物から物語消費者へのアンチテーゼ


※ここから先は考察というより、あくまで私が「こういう物語だな」と読み取った感想なので、穴があってもご了承ください。


アヴァロンルフェの表の主人公がキャストリアなら、影の主人公はオベロン……正確にはオベロン・ヴォーディガーンだろう。

妖精國ブリテンで表と裏、全ての糸を引いていた彼は、『物語だから、現実ではないから』という理由で物語と登場人物が消費物になる世界が許せない、と世界を滅ぼそうとした。


この一連の流れについて終わったあと私は「被造物から消費者への強烈なアンチテーゼ」が、作品世界内で完結しているメタフィクションとしてよくできていると驚嘆しきりだったので、本項ではそのことについて語っていきたいと思う。

言葉だけだと難しいので下手くそながら解説図を用意させていただきました。


画像1

(画像出典:「Fate/GrandOrder」アプリ、webサイトより,いらすとやさんより)

アヴァロンルフェというお話は、現実世界、FGO世界、妖精國世界とそれぞれ入れ子構造になっています。並べた順に上位→下位という力関係になっているので、「現実世界」にいる私たちは「汎人類史世界」「妖精國世界」全てを知覚できる。

しかし「汎人類史世界」にいる藤丸立香たちはその世界こそが現実で、異聞帯であるアヴァロンルフェ、「妖精国世界」の2つのみ知覚している。

そして「妖精国世界」に住む住人たちはキャストリアやオベロン他、数少ない例外を除けば上位世界である「汎人類史世界」を知覚しているものはいない。


モルガンを倒し、厄災を倒しきり、めでたしめでたしと終わりを迎えた妖精國ブリテン。

「そのようにあれ」と生み出され「そのあとはなし」と捨てられたものの一つとなった、妖精國ブリテン。

そして妖精國ブリテンという物語の消費者である藤丸立香に対して最後に敵対し、自分や自分の愛する存在を身勝手に生産しこれまた身勝手に消費する傲慢な「汎人類史世界」そのものを滅ぼそうとする。

第30節でいきなりスケール感が違う話に展開して面食らったプレイヤーも少なくないだろう。
しかしながら自分はプレイしていてちょっとハッとさせられた。


「これはあくまで架空の出来事」

「所詮ゲームのメインストーリーの一部」

「汎人類史を元に戻すための道程でしかない」

「どうせソシャゲだから主人公も死なないしなんやかんやあっても最後はハッピーエンド」

「終わるまでは必ず続いていくもの」


これらに似た思いを大なり小なり、このゲームや架空の物語に抱いたことは無いだろうか?正直に言えば、私はある。そう、創作物というものにナメてかかっていたのである。


物語を娯楽にするということの本質は、非情で露悪的である

いうなればキャラクターを薪にくべることで完成するのが物語だ。

悲劇を書くために人を死なせ、喜劇を書くために道化を作る。

そうして消費したあと、また別の物語を消費するという行為を繰り返した果てーーー

やがて現実の速度に飲まれて、どんなに大切に思っていた物語も忘れてしまう。


画像2

(画像出典:「Fate/GrandOrder」アプリ、webサイトより,いらすとやさんより)

そんないつかは忘れ去られる物語の中の被造物の叛逆者・オベロン・ヴォーディガーン。
つまるところ、彼が本当に嫌いなのは私たちプレイヤーのことだ


しかしながらゲームをプレイしている最中、急にオベロンが「このゲームをプレイしているやつが憎い!!」などと言い出してしまったら、世界観が壊れてしまう

なぜならオベロンは図の中で最も下位の存在である「妖精國世界」の住人であり「現実世界」を知覚できないからだ。ルールが違う。

これらのいわゆるメタフィクションを題材としたゲームは、それなりにゲームをやってきた人たちならいくつか思い当たるものがあるだろう。それくらい、メタフィクションというのはゲームの中でもかなりポピュラーなテーマの一つだ。


オベロン・ヴォーディガーンがプレイヤーを認知できず批判できない代わりに、物語消費者のアイコンとして引き合いに出されたのがマーリンである
ご存知FGOというゲームのマーリンは、千里眼で藤丸立香たちカルデアの物語を個人的に楽しむ趣味を持って、作中物語に介在してくる存在だ。

プレイヤーのアバターが主人公・藤丸立香だが、ゲームとして楽しんでいるプレイヤーの視点は藤丸立香よりもマーリンが近いと言っていい。


メタフィクション構造の中で「物語消費者への批判」を行うのはなかなか難しいが、それをFGOプレイヤーが誰もが知っている主人公とマーリンというアイコンを用いたことで「FGOという作品内でこの批判を成立させた」というのは、なかなか凄いことなのだ


なぜかというとこの指摘は非常に人を不快にさせる指摘であり「プレイヤーを悪辣な物語消費者として批判した結果、うまく伝わりきらなかった作品例がいくつかある」からである。

この例として次項では「うみねこのなく頃に」「ニューダンガンロンパV3」を紹介させていただくが、これらのゲームの核心的なネタバレを含む記述となるため、プレイする予定がある人はここで閉じるか、見出しの目次から最後まで飛んでください。

なお、挙げた作品については私は好ましく思っているタイトルであることを先に記しておく。


事例1.「うみねこのなく頃に」


「うみねこのなく頃に」(以下、うみねこ)は竜騎士07氏が執筆し同人サークル07th Expansionが発表した同人ゲーム、及びそのシリーズである。

筆者と同じかその上の世代だと聞いたことがあるか、「ひぐらしのなく頃に」(以下、ひぐらし)は触れたことがある、という方も多いだろう。


本シリーズは、孤島、六軒島(架空の島)の洋館を舞台にした連続殺人事件を軸にしたミステリーである。1986年10月4日から5日の六軒島で資産家一族右代宮(うしろみや)家とその関係者が次々と殺害されるという物語が、魔女たちが見守る中、異なる内容で繰り返し語られ、その真相が議論される。作中で発見される死体の多くは密室内で残虐に装飾されており、魔女ベアトリーチェが魔法で殺人を犯したと説明される。
(Wikipedia-うみねこのなく頃に-あらすじより)


ざっくり言えば、密室殺人を起こしたのは人間か?魔女か?誰が犯人なのか?ということを真相究明していくサウンドノベルゲームである。発表当時は連載のように約半年に1本ずつ刊行され、EP1~4が出題編、EP5~8が完結編という少し特殊な作りをしている。

この作品は作中でメタフィクションが展開され、実際に殺人事件が起きている世界、それを俯瞰し推理・議論する上位世界、主にこれらの2つの世界を描きながら話が進行する。ちょっとイメージできていない方はEP2以降のアニメとか漫画を読むと雰囲気がわかるだろう。


この作品は完結時、なかなかの記録的炎上をした。色々理由はあるのだがそのうちの一つが「真実を追い求める探偵(プレイヤー)を知的強姦者として批判した」「その上で真実を隠すのを良しとした」という点だ。

もちろんこれらが是とされた理由に、物語としての文脈があるのは大前提である。また、自分はうみねこという物語の中でそれを主張することを是としている。

しかしプレイヤーは、主人公を通して真実を知るためにこのゲームをプレイしているといっても過言ではないのに、エピソードを重ねていったら主人公が離反し「真実を知ろうとする奴らは知的強姦者だ!」とプレイヤーへの迂曲な批判をし始めたら誰だっていい気はしないだろう。


とはいえゲーム版の描き方がよくなかったという自覚はあったのか、漫画版の最終エピソードでかなり加筆修正されて、炎上していた当時に比べればかなり(ここ大事)再評価されている。出来は決して悪くないと筆者は認識しているので、そこそこのネタバレをかました後で恐縮だがどのようなゲームなのかは是非実際にプレイして、自分の目で確かめて見て欲しい。
フルボイスで全エピソード入った移植版が最近Switchで発売したのでおすすめだ。



事例2.「ニューダンガンロンパV3」


改めて断っておくと、割と本当に前項より洒落にならんレベルでプレイ体験を損なうネタバレをかますので、プレイしたことが無い人は読まないほうがいい。

(書いておいてそんなこと言うなよ……)

11月4日にナンバリングタイトル3作が全て入ったSwitch版が出る予定なので、プレイしたことが無い人は是非やってみてください。1のネタバレは知ってるよとかでも全然楽しく遊べますよ。プレイし終わったらまた読みにきてくれや。



「ニューダンガンロンパV3」(以下、V3)はスパイク・チュンソフトより発売されたアドベンチャーゲームだ。

前項のうみねこと同じく、そこそこゲームをやる人だったら「ダンガンロンパ」という名前を聞いたことがある人は多いはず。

ダンガンロンパはざっくり言えばデスゲームものであり、各分野における才能を持った「超高校級」の生徒たちがコロシアイ学園生活を送ることになり、誰かが死ぬたびに「学級裁判」を行い犯人であるクロを特定する……というのが大まかなシリーズのお馴染みの流れだ。


このゲームが賛否両論となった理由はアヴァロンルフェの説明に用いた図式に少々似ている。

V3のゲーム内で描かれている世界は、「ダンガンロンパ」というゲームが存在し大ヒットしシリーズ化した世界(つまりは現実世界に近い)であり、その作中世界の中で「リアルコロシアイゲーム番組」というリアリティーショーがV3のゲーム内で行われている「コロシアイ学園生活」だったのである、という、とんでもない世界観設定たったのだ。
その時点で生き残っていた登場人物どころか死んでいった登場人物たちもダンガンロンパが好きで、喜んでコロシアイに参加したやべーやつらなのだ。もちろん、デスゲームに支障が出ないよう、ゲーム開始時に記憶処理をされているが。


そしてこれを見ている作中世界の外野もダンガンロンパというものが好きで、次を望む限りまたコロシアイが始まり、クラスメイト同士が殺し合う悪辣なドラマが生まれ、犠牲者が出る……この部分が間接的に、ダンガンロンパというゲームを好きでプレイしているプレーヤーへの説教と認識したファンも少なくはない。

現実的に考えたらデスゲームものというジャンルのゲームをフィクションとして楽しんでいるのは、その入れ子に入っている人間からしたら悪辣極まりない奴らに見えるので、プレイしたとき全くもってその通りだなと自分は妙に納得した。

詳しくは昔書いた感想記事を置いときます。


デスゲームという物語を消費する、ファンとプレイヤーの悪辣さを批判した登場人物たち。

彼らはそれを知った後、果たしてどうするのか。

それはこれを読んでいる方自身でプレイして、見て、感じて欲しい。




総括


自分の小規模なゲーム経験の中で2つほど例に挙げて引用させて頂いたが、このように「被造物が物語消費者の悪辣さを批判する」という行為はかなり賛否を伴う劇薬というのがおわかり頂けたかと思う。

しかしながら、同じ主張をしているオベロン・ヴォーディガーンないしアヴァロンルフェに関して、そういった批判は筆者の観測範囲ではほとんど見かけない。

これもひとえに「ティターニアという悲劇的な物語消費物概念への愛の為に世界を滅ぼす」というオベロンのキャラクター性の魅力と、プレイヤーの代わりに物語消費者のアバターとなったマーリンのおかげだろう。


ところで、藤丸立香は一貫して各ロストベルト、それぞれの異聞帯に存在するものたちへ対等に接していた。

あくまで一つの地球の一つの未来を奪い合う対等なライバルとして、各異聞帯の王たちと戦ってきた。これを読んでいる方もこれまでを振り返って、色々思い出深い異聞帯の王たちがいるとは思うが、筆者はLB2でスカサハ=スカディと対峙した際にぶつけられた「怒り」がとても印象に残っている。

異聞帯の霊長と接する態度についても、情報収集の意図はあるが、たとえ無駄だとしても彼らの生活、文化を理解しようと真摯に接していた。Fate的に言えば「心の贅肉」だ。


アヴァロンルフェは他の異聞帯と比べ特異な場所であることは冒頭から触れられていた。空想樹はもう存在しないから攻略の必要は無い場所、あとは勝手にひとりでに滅ぶだけの異聞帯から星を巻き込み滅ぶ特異点への変化。

「ひとりで滅びるか、すべてを滅ぼすか」


ブリテン異聞帯は、汎人類史と対等ではなかった。現実世界の私たちと、FGOというゲームの世界のキャラクターが対等ではないように。その特異な関係を「物語の被造物と消費者」という重ね方でシナリオを展開したのは、なかなか思いつくことでは無いだろう。

オベロン・ヴォーディガーンがもたらした要素が無くても十分面白い話だが、この一手があったことでアヴァロンルフェというお伽噺は最高の形になってくれたのだ。



先日発売したファミ通のインタビューによると、羽海野チカ氏にオファーが出来たところからこの王道的RPGからツイストした要素を入れようと決めたようなので、もし羽海野チカ氏のスケジュールに都合がつかなかったら?もし仲介役のマフィア梶田氏がいなかったら?そんな現実世界の奇跡の積み重ねで生まれた物語とそれらを作り上げてくれたスタッフの皆さんに改めてありがとうと伝えたい。



熱望され、応援され、氾濫しきった多くの世界。
超越能力を持つ下位世界のものと、
空も飛べない上位世界のものたちの現実。
一話ごとに増していく速度と深度。
敵は何で、誰なのか。
僕らは何をして、何を得たかったのか。
いずれ牙を剥く物語の多重構造。
しかし、誰に牙を剥く?
語るまでもない。このアニメを見ている貴方。
……いや。2017年に生きている、君とオレにだ。
(竹箒日記より)


思えば昨年から「ユーザーに娯楽との接し方を問いかける」作品が多く出てきたと思います。
大衆の総意と自己の正義を対決させた『P5』、
『娯楽』を楽しむ事の露悪的な本質と、その先にある救いと意味を描ききった『ニューダンガンロンパV3』、
虚構であれ、物語中に生まれた知性の容認と、物語を変革する為にはこれほどの覚悟が必要なのだと叩きつけてきた『ニーア・オートマタ』。
(竹箒日記より)


街にひとたび出ればほぼ全ての人間がスマホを持っている2021年。

カネよりも時間という可処分所得の奪い合いの現代。

一生あっても消費しきれない娯楽が氾濫する日本という国。

その中で近年の創作物が奈須きのこ氏の仰るような「娯楽との接し方を問いかける」怪作が存在するのも確かで、「妖精円卓領域アヴァロン・ル・フェ」はそれらの娯楽を消費し感化され苦悩しながらも物語を生み出さずにはいられない、消費者であり創作者である奈須きのこ氏が送り出したフィクションを消費するユーザーへの問いかけのように自分は思うのだ。


いつかこのFate/GrandOrderというゲームが終わり、この感動を忘れてしまったとしても、また次の物語がわたしたちを待っている。

瞬きの間に情報が溢れかえり過ぎさっていく現実のスピードの中で、物語と架空の存在はただ消費し忘れ去られるだけの存在なのか?

そんな途方のない問いかけを思いながらこの記事を締めくくりたいと思います。


前編から引き続き、長々とお読みいただき誠にありがとうございました。

ちなみに前述で奈須きのこ氏があげたP5もニーア・オートマタもどれも面白いからみんなやってね。



おしまい。


もうちょっとだけ続くんじゃ(コメント返信や書ききれなかった内容とかの補足)

支援貰えると美味しいご飯がより美味しくなるのでよろしくおねがいします