昔話2

生まれ育った場所は地方の漁港の街でした。
遠洋漁業が活気のあった幼少期は街はかなり賑やかな街だったと思う。

我が家は父親は遠洋漁業の船乗りで、年に2ヶ月くらいしか家には居なかった。

私自身は4歳くらいから母親も仕事をしていたので鍵っ子の1人っ子だったので、今と違い、近所の方々が常に気をかけてくれて、面倒を見て頂いていた。

ガキながら、悲しんだり、寂しがったりするヒマも無く、生きる知恵として、面倒を見てくれる方々に対して感謝し、行儀良くする事が必須な幼少期を過ごしていた。

しかし、中学生になった頃から、くだらない不良少年になり。中学から夜の街と関係を持ち、晩飯はスナックで食ってるよーな生活をしていた。

しかし、夜の街の方々は、タバコや、飲酒は許してくれたが、シンナー、カツアゲ、イジメや、人としてダメな事に関して、行儀の悪いことに関してはとても厳しく叱てくれる先輩達だった。

また当時は暴走族がすごく多い時代だったし、集会だと田舎とは言え100台以上集まってたりしたし、地元の先輩達だと普通に10歳上とかのOBと呼ばれる方々にも可愛がって頂いたっけw

高校には入り、免許を取ったら悪い方の仲間はとりあえず暴走族へだったが、ここに人生の分岐点があった!

悪さをしたい奴ら、バイクや車が好きな奴らと別れるんだよね。

幸いに俺の場合は、バイクが好きで速く走りたい!の興味が大きくなっていった。

悪さもしたが、周りの方々のおかげでボーダーラインの向こう側に行かずに済んだと思う。

Twitterの何故くんアカウントを作るキッカケになった、恫喝逃亡容疑者殿は島田紳助氏にお行儀は教わらなかったのかな?

あの恫喝を紳助さんが容認し、応援してたとしたら、紳助竜介の漫才が大好きで、カセットテープに録音して、擦り切れるまで聞いていただけに、すごく残念なんだよなぁ😰

#さよならガーシー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?