感覚と言語

ネタと知りつつ全力で乗っかるのも大人の作法、と嘯いて書いてみる。

どこかの掲示板で昔、曲名を教えてほしいという相談者がいた。
知っての通り、掲示板は文字でやり取りを行う訳で、曲という様々な要素から成り立つ物を表現するには些か役不足に思われる。
それでもその相談者は、掲示板という限られた場において曲を表現することに挑戦していた。


『チャンチャチャチャン・チャチャチャン・チャーチャン・ッタッタ・ッタッタ〜(省略)』


…分かる訳が無い。

と私も思っていたし、同様のコメントも多数集まっていたのだが、そこに「それは◯◯という曲では?」と見事正解に辿り着いた猛者が現れた。
まぁ、それが自演の可能性は勿論あるのだが、本当だったらすごい事よな。


音を言葉に変換する時、そこには絶対的に発信者側の要因が含まれている筈だ。
そして、その言葉で表された音を再度脳内で音として変換するには、受信側の要因にまた左右される事は避けられない。

にも関わらず、上記の例のように正しく伝わったのなら、言語感覚が類似している可能性が考えられるのではないだろうか。
だが、どうしたって他人は他人、自分と同じ人物ではない。つまりは性格や生育歴、性別、年齢等の相違点が多くを占めるだろう中、何を以て疎通が可能となったのか、非常に興味深く感じる。


音以外で、私自身の身近な例も挙げてみようか。

友人に話好きのやつがいる。
読書が趣味だからか、それはもう比喩表現が多彩で微に入り細に入り説明を重ねる。そんなものだから、話がめちゃくちゃ、長い。もう一度言う。

めちゃくちゃ、長い。

例えば家族と喧嘩したという話をする為に、その前1週間(下手したら1ヶ月)の生活を細かく説明し、喧嘩に至る素地がこうやって出来ていたのだ、という事を語ってくる。

聞いている分には問題無いので喋らせ続けるのだが、友人が本題まで語り終えた後、私が「要約するとこういう事だな?」と確認を取り「そう、それ!!」となるまでが様式になっている。
3時間聞き続けた話が要約1分とか、毎度の事である。

この発信側と受信側で用いられた言葉が重なる事はあまり無い。
友人が様々な表現で語った内容と言うのは、友人の中ではその言い回しだとか文脈だとかが的を射ていると感じるから選ばれたものであり、つまりは端的に述べているものでなかったりする。
対して私はと言うと、まぁ目的が要約であるから、語られた内容を自分なりに適切と思われる言葉を選択して端的に述べようと心掛ける。
その結果、お互いに認識したものが近しいと相互に思えるのは、恐らく友人と私の言語感覚が似通っているのだろうな、と私は感じている(友人がどう思ってるかは知らない)。


そう言えば、漢字の選び方にも感覚が現れると感じる。

「会う」のか「逢う」のか。
「見る」のか「視る」のか。
「願う」のか「希う」のか。

どれも中心概念は一緒だが周辺概念が異なる。
言語感覚とはこの周辺概念の捉え方が似通っているとも言えるかも知れない。

と、ここまで述べたところで、結局お前は何が言いたいんだ?と自分で疑問に思ってきたので終わる。ただの思考の垂れ流しだな、うん。

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