脳と脳(主に下ネタ。いい加減下ネタから離れろと思わなくもない)

脳と脳を繋げるという発想を持った人は少なくない数に及ぶだろう。ではそれを何処まで掘り下げられるか。妄想してみた。娯楽に影響を与えた。廃人が生まれた。政治まで及んだ。世界が滅びそうになった。あるぇぇぇ?

気を取り直して。

掘り下げた方の妄想はね、他にちまちまと書き溜めてるんでまたの機会に。

脳と脳を繋げる、で思い出すのがシルヴェスター・スタローンの映画「デモリションマン」の擬似的性交。所謂クリーンな社会というヤツでは、種としての生存本能の類すらキタナイモノとして扱われるのが非道く印象的だった。人間って一応動物だったよね?あの世界観で生物とはどういった位置付けでいるんだろう。

その擬似的性交が常識となった社会においては、それを受け入れられない人達がマイノリティとなる。つまりは時代によって多数派・少数派が別れる訳だ。そんな普遍性の無いものに今現在価値観揺さぶられてるのも、何か意味が無い事のように感じられる。他人は他人、それでいいじゃんね。

それは置いといて本題入ろうか。

この擬似的性交。擬似ならではの良さとは何かを、現代に生きている私の視点で考えてみた。が、全然思い浮かばない。映画では相手の艶姿が脳内にイメージ映像として流れてるように見えたんだけど、それってAV見るのと何が違うのか。出演者が替わっただけでは?物理的刺激無しに双方共に満たされるのか?疑問が尽きないし、理解出来ない。勿論病のリスク等の回避とかのメリットはあるんだろうけど。

人は性交に何を求めるか。
子孫を残すという種の繁栄や、愛情の確認、後は直接的な快楽、と想定してみる。
映画の世界では唾液や汗が汚らわしいとされていた筈だから、恐らく人工授精等の子を為す方法も確立されているのだろう。そんな描写もあったような、無かったような。そうすると、種の繁栄については擬似的性交ならではの良さは無いよな。
愛情の確認は、擬似的性交でも可能かも知れないが、それならではの良さがあるとは言えないかと。というより、リスク無しであればスポーツのように楽しむ間柄が増えて愛情も何もあったもんでは無くなりそうだ。
では直接的な快楽は?イメージの相互交換だけでは成し得ないと思われる。それが出来るとするならば、人は社会と機械に調教された畜生では無かろうか。

と、やっぱり擬似的性交の良さが分からない。

どうせ脳と脳を繋げる機械があるってんならさ、快楽中枢を刺激する端子なり何なり付いているとか、それならではの良さが欲しいとこだよね。
まぁ、映画の主題はそれじゃないから設定が作り込まれていなくても何ら問題は無いんだけど。

ここでちょっと飛躍して、脳と脳を繋げる事で得られる快楽、に絞って考えてみる。

普通の性交では成り立たないけれども、脳と脳が繋がっているのであれば新たな快楽を得られる可能性があるのでは?

例えば感覚の共有化。

よく言われるのが女性は男性の何百倍もの〜って内容だけど、あれを共有化出来るのであればそれは新たな快楽だよな。で、どちらもフリが出来なくなって噓が吐けない。そして訪れる関係性の破綻。あるぇぇぇ?

違う感覚の共有化を図ろう。

自分の末端神経が相手の末端神経と徐々に重なっていく感覚。
自分の細胞が相手の細胞と溶け合う感覚。
自分が相手であり、相手が自分であるという、通常では得られない同一感。

脳と脳を繋げる擬似的性交ならこのくらい可能であって欲しいな、って、これ願望だな。
同一感を得られるのであれば、それは配偶者として、家族として、より強固な関係を築けそうなイメージがある。
これは社会的に見てもアリなんじゃない?

とも思うんだが、同一感から抜け出せなくなって自分という人間が曖昧になってしまう人も多そうだ。それは多分廃人と呼ばれるのだろう。または依存心の増幅で社会生活が儘ならなくなる。

つまりはだめじゃん。

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