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近況(24.08.17.)

最初の戯れ言

別にfacebookにしてもよかったのですが、あちらは割とゆるゆるとお付き合いフォローが多いせいもあって、好き放題書けないというか、書く話題を選んでしまうというか、そういう理由でこちらにします。

近況と言っても、コロナ明けからここ数年の話なのですが、明らかにリアルでのお付き合いが減りました。新しいことに挑戦しようとするバイタリティが減ったというか、他人に対して割とドライな部分が強くなってしまったというか。

そうなってくると、不要な人間関係が面倒くさいものに思え、そういったワガママな目で周囲を見渡すと、面白いことに私以上にワガママな目で周囲を見ている人にも気づいてくるわけです。

そういった、ある意味「自分の都合でしか人を見ない」人の肚が見えてしまった時、それがひとり二人なら自分が「見なかったこと」にして楽しくやればそれでよいのですが、ほぼその場にいる人全員がそれぞれに自分の都合だけで人にものを言う、そんな地獄を見てしまた場合、どうやって乗り越えたらよいのかというと。
私はそこまで強くないので、場の「楽しくなさ」を背負い続けることに意味を感じること、見出すことができません。ですから、場に期待しなくなります。

家庭でも仕事場でも趣味の場でも、それぞれに、限界のようなものが見えてきた、あるいは見えてきては困るので、そこに込められた数々の期待値を下げなければならなくなった、というわけです。

バスの向こうの川、そしてその碧

「つまんなくなった」と感じる心から見えてくるもの

俄然、一人の時間を非常に愛するようになります。私は(生き物の)ゾウが好きなのですが、そのゾウをちっちゃくしてぬいぐるみみたいなマスコット化した「ばばーる」みたいな名前の子を頭の中に置いて、ばばーるとおしゃべりするようになる。
内向的で、こういうのはあまり頭の柔らかい若い方にはお勧めしないのですが、短期記憶もだいぶ衰えた中年には結構よい手だと思います。

「ばばーる」さんとのおしゃべりが必要な理由は、さっきお話しした「楽しくなさ」「つまんなさ」、それを引き起こす周囲の自分の都合でしか人を見ない無用な目を避けるため、です。
道を歩くと、すごく楽しそうに友だちや連れの人とおしゃべりしている人にすれ違うのですが、また、いつも見ていて悲しいのがスマートフォンなどを片手に虚空に向かって何か話している人、こういうおしゃべり。
若いころ、しょうもない理由で「ケンカした!絶交だ!」とかわあわあ騒いでいる人が割といました(今の子はその絶交すらあんまりないらしいですね)。この人たち、ケンカとかするのかな。
とか、ばばーるさんと脳内でお話しすることはあるのですよね。

つかの間の止まりどころ

表面だけでも、形さえ整ってれば永久に続けたいと願う偽の愛情

愛情(友情、家族愛、仲間意識などなど)に偽などあってはならないことですが、近年の傾向として、人はこの偽の愛情を肯定する傾向にあり、しかしそれだけでは長続きしないので「その偽の愛情を維持することが社会貢献になり、ひいては世界を救うのだ」と無理やりマクロな視点で聖人聖女を気取るといった、こじれた意識の高さを発揮するようになってきているような気がします。やせ我慢1000回くらいでこのくらいの考えになるんでしょうかね。
偽の愛情は偽の愛情です。本物にはならない。
本物になればいいと願った時もありました。でも決してそのようにはならなかった。空虚なパフォーマンスに意義があれば、人は何とでも大聖人にも大上人にもなれるのですよねえ。
「そんな人たちにだって、家族はいるんじゃないのかな」
ええ、多分「いつか本物になれるであろう偽の愛情」で接しているご家族がね。それぞれに、誰しもがいるんだと思います。

沢のみどりの水

松谷みよ子さんの離婚騒ぎから見えてきたもの

小此木のご近所には、どういうわけか故松谷みよ子さんの事務所があります。もうお引越しをなさったか、先生の死後すこし内部で揉めていた形跡がありますのでちょっと分かりかねるのですが、たしかに歩いて何分かの、ご近所です。

松谷みよ子さんの離婚は「モモちゃんとあかねちゃん」のシリーズで絶頂を迎えた先生のお人気の裏で進行していた問題として、有名です。
人形劇団を主宰していらしたご主人と、いつのまにかうまく行かなくなった。私はそれは、もともとうまく行かなかった相手とご結婚なさったのではないかなあと憶測を飛ばしていたりもしました。
クリエイターという人々は、あまり成婚率が高いとは言えないのですが、そもそもが「合う」人が極端に少ない。
まして添い遂げる異性を、だれでもいいというわけではないんですね。そんな乱暴な感情で結婚相手を決めてしまったら、傷つくのは自分です(相手かもしれませんが)。

まあ、配偶者の件はさておき、ちょっと気に入った方を「友だちになりたいな」と思う軽率な部分は、流石に減りました。
小此木驚きの性質なのですが、つい数年前まで私は「友だちなんて声をかけたらすぐ出来るもの」とけっこう強く信じていたのです。もともとが好き嫌いが激しくて、あまり多くの友人はいないのですけれども、友だちなんて、誰とでもなれる、と高をくくっていたのです。
これは社交的なんじゃなくて、単なる軽率。「前世よっぽど人気者だった人」のパターンです。
親の証言によると子どものころは結構なお調子者だったらしいので、まだそういう酔狂なところが残っていたのかもしれません。モモちゃんやあかねちゃんにはあんまりないところだなあと思います。

木々を先に、バスは

好きでないものに囲まれた生活

そうやって自分を顧みると、ここのところ「好きでないもの」に囲まれた生活を送っているのだなあと思うようになりました。
一番好きでないものから離れていくのが人間ですが、事情があって離れられない場合は二番目、それもだめなら三番目と手放していくしかない人生になります。

大人のよくない部分はですね、この繰り返しで一番好きでないもののいくつかが、最後まで残っていくという点です。好きなものより嫌いなものとの付き合いが長いのですよ。それも事情事情、全部事情です。

物語もそうです。「自分、すっかり飽きてしまったなあ、でも頑張って完結させないと」と思ってリソースをぶっこむ。つまんない気持ちのまま公募に出して落ちてがっかりする。「これ自分に合ってないなあ」と思う作品に力を入れてまた失敗する。裏で、遊びで書いた作品はとても気に入って続きをずっと書きたくなるのに我慢した結果がこれでは、浮かばれない。
でもそれって「公募作として体裁をこれまで整えてきたから」という事情があるせいですね。ただ好きで書いただけの物語は、よほどの天才でもない限り公募で結果は出せません。

家の中には、もうどうやっても結果に繋がらない物語の三稿目とか四稿目とかが屍として転がっている始末。

その青に意味はあるか

それでも、生きて行かざるを得ない

今までの私の戯れ言を読んでこられた方は「ああ、この小此木という人は今どん底なのだ」とお思いなのかもしれません。確かに書き手としては現在逆風が吹いていて、上記の述解がいつも心に渦巻いているよくない状況なのです。
ただ、私だって別段聖人聖女ではないので、災厄だけは出来る限り避けたいと思っているのも事実です。そのために人づきあいが縮小の傾向にある、と。

まあ何か、面白い作品でも書けたら状況は全部変わるのでしょうが。それ以前に、生きていかなければならないので、難しいところですね。
今の人間関係が来年もつづけばいいが、と実は思っているのもまた事実で、好きでないものに囲まれて人生を引きずっていくのも、また一興なんじゃないの、と前向きに(前のめりに)やっていくしかないのでは、と思う次第です。
ハチミツ少な目のレモネードのように、甘くてもそれ以上にやたら酸っぱい人生、それもまた人生じゃないかな。
                           (以上)

本日の画像は、昨年行った那須の風景でした

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