少年ハリウッドの記憶

はじめに

タイトルの通りTVアニメ「少年ハリウッド」(以下「少ハリ」)について書いていく。

とはいえ、内容に関しては既にネット上に様々な熱い文章やら評判やらがあるので、そこにはほぼ触れずに行こうと思う。ここで書くのは放送当時私が感じていたことだ。なので、この文章の本質は「少ハリ」の名前を使った自分語りだと思ってもらいたい。

私の立場

その前に私の情報をざっと並べておく。

・アイドルアニメは人並み程度に見ていた

・リアルアイドルは有名曲なら聞いたことはある

・アイドルは別に好きではない

・「少ハリ」は2010年代のベスト深夜アニメだと思っている

何が言いたいかというと、ネット上などで熱く「少ハリ」を語っている人の属性とは違うよということだ。そして、そんな人でも「少ハリ」は楽しめるんだよということだ。

出会い

私が「少ハリ」と初めて出会ったのは放送開始日だった。その日、私は趣味のプロレス・格闘技の動画を漁っていた。ふと気が付くともう日を跨いで1時近くになっていた。普通ならそのまま布団へ向かうのだが、その日は寝る前にテレビでもつけてみるかと考えた。たまにはアニメのリアタイ視聴でもしようなどとチャンネルをMXに切り替えると、ちょうどCMが終わりアニメが始まった。そのアニメこそ「少ハリ」だった。

アバンを見て思ったのは「(当時流行っていた)学園異能バトルものなのかな」だった。OPの「ハロー世界」が流れて、何だと思う内にどうやらアイドルアニメらしいことを理解した。

だが、最初の印象はこれ以外には殆ど無かった。せいぜい「恥ずかしいことを、恥ずかしそうにやることが~」というシャチョウの言葉がなかなかいいなと感じたくらいだ。当時の私からしたら、アイドルがこっぱずかしいのなんて当たり前のことで、恥ずかしがる彼らを見ながらそりゃ恥ずかしいよなくらいに思っていた。

そのまま視聴継続こそしたものの、「少ハリ」への感想は「それっぽい言葉」でいいこと言った風にしている雰囲気アニメではといったものだった。ネット上で高く評価されている3話目の「永遠にアイドルではいられない」という事実の提示も、私からすれば何を当たり前のことをといった程度のことでしかなかった。むしろ当時は、SMAPがあるのだから最終的にはそういう方向を目指すのかななどと考えていた。まさか、その数年後にSMAPが嘘のようにあっさり解散してしまうとは、私を含め殆どの人が想像もしていなかったのだが。

変化

その評価が一変したのが7話目だった。メンバーが原宿を歌いながら歩き回る中で交わす会話を聞く中で、サブタイでもある「人生に人生はかけられない」という言葉を聞いた時に、理屈ではなく感覚でその意味するところを感じ取ったような気がしたのだ。そして最後の自己紹介を聞いた時に、この作品が描きたいものは「アイドルに生まれた人がアイドルとして認められる物語」ではなく「ただの人がアイドルになっていく物語」なのではないかという考えに至った。その瞬間、これまでの話で出てきた「それっぽい言葉」が見掛け倒しではなくちゃんと中身のある言葉だったことに気付いた。

この日から私の「少年ハリウッド」に対する姿勢が変わった。片手間で録画してから2・3日後に見ていたものが、次の日の朝起きてすぐにかじり付く様に見ることになった。何物でもなかった彼らが「アイドル」という存在になるため自らを作り変えていく物語は1週間で最大の楽しみとなった。

そして13話目。この世に「新生少年ハリウッド」が誕生するその瞬間に物語は幕を閉じた。これでも十分に素晴らしい物語だったがすぐに2期の発表があった。この時ほどアニメの2期を喜んだことはない。

2期になって

そして始まった第2期は「アイドル」として生きていくことを決断し、それ故に普通でいられなくなるメンバーを描いていたように感じた。

アイドルという虚構の存在をリアルの人格と直接繋ぐというのは、そのリアルすらも虚構の存在である2次元アイドルゆえに可能な技だが、「少ハリ」はそれをしなかった。かつて私に響かなかった3話のように、ステージ上とそれ以外を当たり前のように分けてしまう。

アイドルの彼らと日常の彼ら、アイドルとファン、演者と裏方、表舞台と舞台裏。本来分けられているのが当たり前でありながら、油断すると簡単に越えてしまう曖昧な境界を徹底して守っていた。だから、その境界を越えるためにはそれまでの自分でいることは許されない。それが「少ハリ」だった。

アイドルが虚構であることを大前提としながらその虚構に徹底的に向き合うこの作品を通して、私のアイドルへの考えまでもが変わっていった。それまでは大して能力もないのにアイドルというだけで仕事をしていると思っていたのが、彼ら、彼女らはファンとの共犯関係に殉じているのではないかと思うようになった。それは「少ハリ」屈指の名作回である21話目「神は自らの言葉で語るのか」で確信めいたものに変わった。

あの回以降、私は「少ハリ」が全力で騙しに来てくれるならば、全力で騙されてやるという気持ちになってしまった。これがファンになるということなら、人生で初めてアイドルのファンになったのかもしれない。

放送が終わって

最終話の放送日当日。私は当然のようにリアルタイムでテレビにかじり付いていた。そこで感じた「新生少年ハリウッド」の旅路、これからの未来、可能性。確かにその瞬間私は永遠を感じていたし、彼らもまた本物のアイドルだったと思う。間違いなく言えることは、とても幸せな時間だったということだ。

放送が終わってすぐに浮かんだのは、この作品は今はまだ評価されないかもしれないという想いだった。なにせ当時は第何次だかわからないアイドルアニメブームの真っ只中(現在も続いているのかもしれない)で、アイドルを掘り下げるポイントというのはまだまだあるように見えていたからだ。更には、2次元のアイドルと「中の人」をシンクロさせる動きが主流になっている中で、アイドルとそれ以外の人格を分けるという発想は簡単には受け入れられないのではと思ったのだ。

だから「少ハリ」が評価されるためにはアイドルアニメが飽和する程作られまくった後になるであろう10年後まで待たなければいけないと思ったのだった。

そして今、放送から7年が経とうとしているが「少ハリ」は放送当時以上の評価を得ている。クラウドファンディングによる26話完全版の作成が話題になったのが一番大きな理由だろう。

しかし、同時に大衆向けアニメとしてではなく一部の信者を相手にしたカルトアニメのように扱われているような気がする。ネットでの評判は「アイドルファンなら必修」だとか「哲学」だとか「独特の演出の回(ときめきミュージックルーム等)が有名」といったものが多く、これだけ見るとなんだか視聴のハードルが高いアニメのように感じる。

しかし、私はこの作品は誰が見ても楽しめる素晴らしいエンタメだと思っている。現に私のようなアイドルに興味のない人だって楽しんでいるし、そんなに難しい内容を扱っている作品でもないと思う。今回こんな文章を書いたのも、アイドルファンじゃなくても哲学とか小難しいことに興味がなくても「少ハリ」を楽しんでる人間がいるんだということを残しておきたかったのが理由の一つだ。

私の予想した10年後まであと3年。私があの時思ったほどにはまだ「少ハリ」の評価は高くない。この作品はアニメに興味がある人なら多くが見たことがあるくらいのレベルでメジャーになれるポテンシャルを秘めていると思う。これからの3年間で「少ハリ」がもっとメジャーな作品になってくれるよう願いを込めてこの文章を終わる。

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