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【奴隷学】奴隷学のススメ

私にとって大きなテーマである奴隷と人間についての考えのまとめ。
これはその最初に読んでほしい導入部分。
全体像の把握のために私の考える結論を先に提示しておく。

・奴隷とは家畜の中で、生物学的に人類であるもののことである。
・人間は数多くの(人間に有益とされる種の)家畜化を行ってきた。
・人類もまた、人間により家畜化される動物の例外ではない。
・人類は未だ家畜化という大きな問題を乗り越えていない。

私達は奴隷が何かを知らない

私達は奴隷である。これは「まるで奴隷のようである」でもなければ「奴隷同然に扱われている」でもなく、文字通り「奴隷である」という意味で奴隷である。そして奴隷でもあり、家畜でもある。
これは現在の戦後日本社会に暮らす人々の直感に反することだと思う。
なので少々の手間を割いて説明をしなければならないと感じ、本稿を書き進めるものである。

我々はなぜ奴隷ではないか

私達はなぜ、奴隷ではないのだろう?
まず、私達が誰でも容易にアクセスできて、関わりのない人のいない日本国憲法を見てみたい。

法律的な意味での「奴隷とは何か」

何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。
又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
[日本国憲法 第18条]

これに基づいてそこから派生する労働法などの細かい法律の規定が決められている。
なんだ、守られているじゃん。少なくとも労働法が守られる限り、我々は奴隷じゃないんじゃないの?という人の気持ちは分かる。当然、法律はそのようになっていないよね、とか、法律がちゃんと機能していないよね、という声も分かる。
だけど、私が気にしているのはそこではない。ここで否定されているのは「奴隷的」拘束なのだ。奴隷の存在も、奴隷制度そのものも否定していないのだ。ここでは「奴隷っぽさ」を否定している。少なくとも、ここで述べられているのは「我々は奴隷の存在と奴隷制度を否定する」ではない。
おそらく憲法の意図としてはここで「奴隷っぽさ」という言葉を使うことで、奴隷という名前を使わない脱法的な実質的奴隷状態を大きな意味で否定したい、ということなのだと思う。
しかし、私はこのことが我々に「奴隷とは何か」を考えさせない結果を招いてしまっているのではないかと疑っている。「奴隷とは何か(What)」を定義しないまま、「奴隷とはどのようであるか(How)」が焦点になっていると私は思う。
我々は社会に組織化された知見として「奴隷とは何か」を知らずに、奴隷っぽさというぼんやりしたものと戦っているのではないか。
現在の法律的な意味で、我々は奴隷を知らない。

学術的な意味での「奴隷とは何か」

いや、でもそれは万人が読んで理解する確定ルールとしての定義付け(法律)の話であって、その手前の学術的な領域では、もしくは専門家であればこの問題については明確な答えを出しているのではないかと思って、試しに『隠された奴隷制』(植村邦彦著/集英社新書刊,2019年)を読んでみた。著者はマルクスの研究者で、近代啓蒙思想の流れから黒人奴隷と資本主義の本質的な結び付き(というか同一性)を述べている。さすがにこの一冊から学術界の認識の"全貌"が分かるとは思っていないが、一定の水準の学術的界隈に所属していて、豊富な参考文献も引用されている本書は少なくとも私のような浅学の視点より遥かに学術分野への展望が開けているのではないかと思ったからだ。
愕然とした。
書かれていない。
古代ギリシャ・ローマ時代からの呼び名の変遷などからきちんと遡って書かれてはいるものの、奴隷の困窮と拘束された自由に関してしか書かれていない。
何かズレがある。これはなんだろう。
もちろん、私が単純に間違えているという可能性も考えてはいるものの、何かまだ社会的に論じられていないものがあるのではないか。そう思って私は今、こうして筆を執っている。
私に見えていて、まだ私達には見えていないものがあるのであれば、まずそれを共有したい。

私達に見えている奴隷

私達から奴隷を見えなくしているのは何であろうか。あるのに見えていないのは何に由来するものなのか。私は「すでに別のものが見えてしまっているから、現実世界にオーバーラップして見えてしまい、その姿が覆い隠されているのではないか」と考えている。
普段、私達が考える「奴隷」というのはどのようなものであろうか。
なんとなく私が普段の会話から感じる「みんなの考える奴隷の姿」というのを画像で提示してみたい。

上から順に「ピラミッド建造でこき使われる奴隷」「新大陸でプランテーションの労働に駆り出される黒人奴隷」「聖帝サウザーの墓陵建造に協力させられている児童奴隷」。中には漫画も混じっているし、たまたま奴隷になっているのは有色人種に偏っているのだが、なんとなく世間的なコンセンサスが得られやすい姿の奴隷の姿なのではないだろうか。
現在的な社会の文脈で言えば誰もがひどいと思うし、誰もがこんなことはやめさせないといけないと思うし、現在我々がいる社会が我々の社会の外側(いや、そもそも私達はついこの間まで外側にいたのではないかとも思うが)にやってしまった文明社会の野蛮性を容易に感じさせる光景だろうと思う。当然、私もそう思う。
しかし私はこうも思う。これは奴隷の姿の一部に過ぎない、と。
ここに描かれているのはたしかに奴隷なのだが、これは奴隷の「貧困」と「虐待」の姿だ。「奴隷」というのは「人間」との力関係の格差によってすぐに貧困や虐待(暴力)に晒されやすい。しかし私はそれは「奴隷はどのようであるか」の話であって「奴隷とは何か」という本質の話ではないように思う。
私はこの「貧困と虐待と奴隷」という分かりやすい概念のセットを鞭ピシ奴隷と呼んでいるのだが、私達が奴隷について語るとき、この鞭ピシ奴隷の姿が強烈すぎて、それ以外の奴隷の姿が目に入らなくなる。
それ故に私達は容易に「奴隷とは何か」を見失う。

補:人身売買の問題も結果として売買の具に供せられてしまうことがあるが、これも本質的な話ではないと思っている。

見えない奴隷

私のような浅学がいまさら言うのは非常に気が引けるし、当然学術分野での専門家や学者の視界には入っているとは思うのだが(当然だ。私は彼らからこれらのことを教えてもらったのだから)、それでも世間一般ではまだ認識されていない奴隷の姿を一部分ではあるが列挙してみたい。

・白人奴隷
・貧しい自由市民(※)
・権力を振るう奴隷
・豊かな奴隷
・戦闘奴隷
※これは奴隷ではないが、今の我々には意外性のある奴隷を取り巻く環境として入れておいた。

どうだろう。歴史に詳しい人には想像がつくものもあれば、私がまだ説明をしておらず、言葉足らずなために撞着話法のように感じるものもあるのではないだろうか。
今、私が言いたいのは「奴隷とは何か」というテーマには私達の社会がまだきちんと認識していない大きな領域があるということだ。
こんなことは私が言うまでもないことだとは思うが、もちろん奴隷と労働というのは切っても切れない関係がある。なぜなら、奴隷とは労働のための資源だからだ。なぜなら、われわれは日本国憲法下で生きる限りは勤労の義務があり、勤労と労働とは非常に密接な関係性があるからだ。
なのに我々は「奴隷とは何か」という問いの全貌を知らない。
全貌を知らないのにどうして私達の社会に「奴隷はいない」と言い切れるのか。

だから我々は学ばなければならない

私達は奴隷とは何かをまだ知らない。しかし、もし聞いてくれる人がいたら私は私の知っていることを話そうと思う。私のまだ知らないことがあれば教えてほしい。
googleで検索したところ、まだ「奴隷学」という名前を使って学問を立ち上げた人はいないらしい。(いたら教えて下さい。その人達とは友達になれる可能性があるので)
だから私は奴隷の本質について考えて、情報を交換する場を奴隷学と名付けて立ち上げようと思う。
もし、今後さらなる展開があるのならば、様々な〇〇奴隷学や奴隷〇〇学なども立ち上がればいいな、と希望的観測も持っている。
私はこの議論に参加するのに大卒である必要もなければ、誰かの弟子である必要もないと思っている。ただ、話したい、聞きたい、書きたいという意欲があれば参加できる場にしたい。下記に連絡先としてTwitterアカウントのURLを掲載する。もちろんここにコメントをしてくれても問題なし。
当面の間はここに連絡をいただければ何らかの交流の手段を考えようと思っているので、思い立ったときに気軽に話しかけて欲しい。

#奴隷学

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