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ユーズド・カー
長崎に住んで2週間が経とうとしている。こっちに来て初めてちゃんぽんを食べた。かなり美味しかった。信頼のあるエンジニアさんに教えてもらった店だったので間違いがなかった。料理とミックスには通ずるものがある。
街が賑わっていた。
こっちに住むまでは電車に乗ることが少なかったり、そもそも大勢の人が居る空間に行かなかったりと、雑踏から聞こえてくる会話を耳にする機会から遠ざかっていた。電車やカフェで隣に座る若者、行列のひとつ前に居る若者。もれなくみんな異性の評価について話していた。カップを飲み干し、その場から立ち去る。この居心地の悪さが懐かしい。思えば大学生の頃から男性としての振る舞いを測るムードには耐えきれなかった。
別の日。焼き物が有名な町へ食器を買いに出た。複数の店舗を周り、吟味し、気に入ったお皿と茶碗を買う。家に配置されている様子を見て和む。気分が良くなる小さな動きを感じる。
翌日、偶々スタンダードプロダクツを通りがかると、そこにも食器が並べられていて思わず立ち止まった。デザインや色も良い。値段を見てそのあまりの安さに驚く。もし昨日の店に倍以上の値段で並んでいたとしても、買っているかもしれない。プロダクトに思いがあると勝手に納得しながら。。途端に自分の感覚が信用できなくなる。ただ吟味して選んだお皿は吟味した時間が内包されたお皿になる。大量消費へのカウンターになるありふれた思い入れを思ったりした。
街の声が入ってこない点で言えば、車は良い。また、性格上向き合った席よりも同じ方向を見ていたほうが話せることもある。
5年前、知人から譲り受けた中古車に今も乗り続けている。しかし最近は前にも書いた通りガタが来始めているのを感じる。「買い替え時かー」と他者が乗る車に目が行くこともある。
昔から特段車には興味を持てなかった。しかし地方に住むことになった今では生活必需品となった。
乗り始めた5年前はペーパードライバーで、のっけからガリガリと側面に傷をつけてしまった。その傷が入ったまま、今に至る。
パンクしたままの自転車を乗り続けていた中学生の自分となんら変わりない。辿り着けるなら良いと思っていた。
「買い替え時か」と思うのは良いが、今すぐに買えるものでもない。ただ愚直に労働あるのみ。
この社会で車は象徴的だ。結局モノであることには違わないし、避けてきたようなあの評価軸にだってなる。
減速する自分の後ろからガタガタうるさい自転車が通る。振り返りこちらを覗く。
「頑張った先に待っているのは車で良いのかな?」
そこまで興味も持てないんだけど。
でも思い入れを乗せてくれるとしたら?お皿や遊び疲れた身体を運んでくれるなら。向き合わずに言える本音があるのなら。
様々な分岐点を前に目が泳ぐ。カーブに体が揺れたりする。
社会ルールの中にある個人の空間。標識の数字を気にしながら。
もう少し今の車には耐えてもらわないといけない。
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