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距離

はじめての海外だったので着陸の瞬間に自分は何を思うのだろう?と考えていた。

思えばベトナムかタイに行きたいと思ってお金を貯めていた時期があった。ほどなくしてコロナ禍に突入し渡航のハードルが高くなってしまった。そういえばコロナ禍特有のルールがあったな。今ではその慣習はほとんどなくなった。そんな日々を俯瞰するように飛行機から覗く。知らない街並みが近づいてくる。建物の建て方が違うな。いや飛行機が近づいているんだった。そうそう、ソーシャルなんやったっけ。ソーシャルエリア?もう着陸だ。着陸する時に何を思うか。いやソーシャルスペースか。各々の間隔をあけるみたいな意味だから。いや違うか。なんだっけ?と「ソーシャルディスタンス」が思い出せないうちに機体が揺れ、地面に接地したと分かった。




台湾は自分の拙い中学英語でも伝わることが多かった。なんなら日本語でも汲み取ってくれる人が多かった。空港でタピオカを飲んだ。初めての母国語以外での注文だった。行きたかった場所では「ハイキュー!!」と「ちいかわ」のポップアップが開催されていた。こんなにも日本文化が目に移っても、拭いきれない独自性があると感じた。

八角の匂い。湿度の高さ。
剝き出しのまま建設されているビル。


歴史的な背景は知識として知っている。ただ防空壕の標識が日常にある当事者性は体験できるものではない。



バスの運転手が突然バス停ではない場所で停車させてどこかへ行ってしまった。エンジンかけっぱなしの車内で待たされる乗客。いつから日本は運転手が突然トイレに行くことにも不寛容になったんだろう?たまたま読んでいた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』に日本の労働史が書かれていた。建設中のビルが完成し、成熟しきった頃、台湾も他者に不寛容になるのだろうか?

ならないとは思った。「隣人」の価値観が違う。気がする。外食文化が盛んで自炊せず外で食べることがほとんどとは知っていた。仕事終わりに店員さんと会話する様子、ひとりで黙々とご飯を食べる様子、でも同じテレビを見ている様子を見ると、日本人とは「外」と「内」の感覚が違う気がした。みんな他者であり他者でない。のかな?


行きたかったお店のひとつ、Waiting Roomが定休日で閉まっていた。一度店の前まで行った時はそうとは知らず、看板を見て15時にオープンするのだと読み取った。その時点で16時だったけど。また1時間後に改めることにした。


17時過ぎにもう一度お店の前に行くと、さっきまであった扉の前の柵はなくなっていたので、意気揚々として扉を開けた。すると店員さん3人が驚いた顔でこちらを見ている。そこで丁寧に定休日だと教えてくれた。咄嗟に「明日日本に戻らなあかんねや」と英語で話した自分に驚いた。些細な成功体験だったが、国語以外で会話ができるというのはこんなに嬉しいことなのかと思った。


最近はDos Monos『Dos Atomos』を繰り返し聞いている。また、『東京都同情塔』が最近の読書体験の中で1番の作品だった。『東京都同情塔』ではキャンセルカルチャー、検閲により言葉が不通になる現代の日本を描いている。差別的、不適切とされる言葉を排除した結果、表層だけ整えられたカタカナ英語が蔓延し本質を曖昧にする。意味から遠ざかっていく。


とにかく食べ物が美味しい。普段から日本でも好き好んで食べている味なので飽きが全く来ない。辣油と香辛料が売っているお店で気づけば5000円使っていた。日本に帰ってからも食べた味を再現すべく、調味料を使ってみる。台湾良いな。大好きになった。

『How Sweet』のMVロケ地も巡ってみる。タイアップである「可口可楽」が売っている。秀逸な当て字じゃんと思ったけど、言語とはそういうものか。
九份にも行った。観光気分を味わいながらも言語のストレスや不便が少ない。これは人気な観光地になるわけだ。

恐る恐る注文したタピオカミルクティーも、慣れたかのように注文する。通算5杯目の烏龍ミルクティーを飲み干してホテルをチェックアウトする。




帰りの飛行機は行きよりも機体が狭かった。ソーシャルディスタンスとはなんだったのかという密接な距離。
隣の席に大柄な人がやってくる。肘が当らないように避ける。もう寛容の心が崩れそうになるけど立て直す。
社会的距離についてもう一度考える。

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