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運動もダメ、勉強もダメ、なんの取り柄もないけどお笑い芸人を目指した





小学生。





親に行かせてもらってた習い事は水泳と、英語。









水泳に関しては個人メドレーという、バタフライ→背泳ぎ→平泳ぎ→クロールの順で25m×4本の100mのタイムを競うやつで、小学生の早い人で1分50秒とかのところ、僕は衝撃の4分台を叩き出していた。








最後の25mを泳いでるときに、マラソンの最後尾の人に送る





「頑張れー!」



ってやつを水泳でもらってた。








ちなみにマラソンでもらったこともある。








英語はずっと習っていたけれど、ある日アメリカに住んでいる母親の姉に用があり、国際電話で電話をかけたときに、





「Hello」







と姉のアメリカ人の旦那さんが出て、いきなり男性外国人の声を聞いたから、




「あ、あ、えっと、、、、うわぁあああああああああああああ」




ってなって謎の大号泣をしながらお母さんに代わった。






そしたら母親も母親で、



「〇〇(姉の名前)プリーズ」




っていう頭の悪い女子高生みたいな英語で姉に代わってもらってた。






運動も出来なくて、勉強もできなかった小学生だったけど、学校では6年間、学年のおもしろ担当ではいた。





だから小学生の時の将来の夢は、
「お笑い芸人」だった。









中学生。







中学生になったら卓球部に入ろうと思ってることを母親に伝えたら







「地味なやつしかいないからやめな」




と、エゲツない偏見でブレーキをかけられ、友達が野球部に多いという理由で野球部に入部した。







もちろん運動神経悪すぎて野球部で一番ヘタクソだった。本当に一番。三学年合わせて本当に一番。いじれないヘタさのやつ。








一方、学校の勉強もテストは50〜70点ぐらいのもん。全然飛び抜けたものはない。






さすがに英語だけは、幼稚園からずっと習ってたからプライドあって90点以上取ってた。








そこで俺の英語は止まっているからいまだに、外国人と喋るときは





「Do you like Japan?」

しか出てこない。









でも、どんなに野球下手でも勉強出来なくても、下ネタと面白い動きだけで、学校の目立つ奴らとずっと一緒にいた。







中2で東京に転校するときの、二階の窓からみんなが顔出して手を振ってくれたあの光景をいまだに鮮明に覚えている。






中学生においての下ネタの力は本当にすごい。









東京へ来てからも野球部に入部するも、もちろん下手くそすぎて三年生の最後の試合の思い出代打すら出してもらえなかった。





だいたい中学生の最後の試合って、負けるってなったら全員三年生を代打で出すんだけど、一応奇跡はあるかもだから、俺みたいな絶対にバットに球が当たらない人は出さないっぽかった。






まぁ確かに俺、球当たらないくせに全部のボールにバット振るし、デッドボールっぽい球は痛いの嫌すぎて地面に尻もちついて逃げるから塁に出るの不可能だったのよね。






受験も偏差値が中の中ぐらいの学校に進学する程度しか勉強できなくて、秀でたものなんかなにもなかった。






でも転校先の学校でも、やっぱりおもしろ担当ではずっといた。





野球部みんなの前で一人イロモネアやって全員笑わせたあの夜の公園の気持ちよさったらなかった。











この時もやっぱり将来の夢は、
「お笑い芸人」











高校生。



部活は野球部がなかったので男子ソフトボール部を作り、そこでキャプテンを務めた。





ほとんど野球とかの経験者いなかったから俺めちゃめちゃうまいやつみたいになってた。









だがしかし、途中から未経験者の人たちがどんどんうまくなって、最終的にほぼ俺のせいで負けて引退した。








さらに、クラス対抗の男女混合球技大会では、サッカーでキーパーやったんだけど、シュート決められまくって女子にキレられてた。



女子にシュート決められてたし。三点入るし。









勉強に関しては、その頃初めて付き合った子に振られて頭おかしくなってポエマーになったおかげで、勉強めっちゃしてた。



本とかすごい読んでた。純文学。太宰治とかね。電車とかで絶対表紙付けなかった。周りに見てもらいたかったから。きもすぎ。






とはいえ、志望校に合格は出来なかった。やっぱり勉強はそんなにできる人間じゃなかった。








でも学校ではおもしろいやつとしてずっと居たから、後輩から笹本さんになりたいって言われてた。






まぁ童貞みたいなやつだったけど。






この年齢ぐらいから現実的な考えになってきて、お笑い芸人は無理だと諦めて、高校の国語の先生を目指し始める。











大学生。





卒業かなりギリギリで、ゼミとかでもむっちゃ出来損ないみたいになってた。とにかくダラしなかった。








高校時代は周りの女子の目とかあったから勉強頑張れたけど、大学はそうじゃないから一気に本当のクズの自分が現れちゃったのよね。








でも国語の先生にはなりたくて、ずっと教職の授業は行ってた。








その頃野球サークルに入っていて、もちろんうんこみたいに下手だったから試合に出ることはなかったけれど、おもしろ応援で活躍していた。






オリジナルコールとか考えて飲み会盛り上げたり、サークルの合宿で高速乗ったときに、隣を並走していた小学生のバスに、得意の首を前後にするタテノリかましてこっちのバス内爆笑させたりしてた。

小学生のバスの方はドン引きしてたけど。







大学四年生のとき、やっぱり学校の先生じゃなくて就職しようと考えた。



就職活動の時期になると大学生の意識高い系が増えまくってそこに少し感化されちゃった部分はある。あいつら毎日気持ちよさそうに生きるからよぉ。








就職活動の際にやる、自己分析本という、自分の性格や、やりたいことをマークシートに書いていくと最終的にどういう仕事が自分に合うかわかる、みたいなやつを僕もやった。







自分がやりたい仕事が正直あんまりわかってないから、本に判断してもらおうとしたわけだ。








結果は「クリエイティブな芸術関係の仕事が向いてる」と出た。










ネットで他のやつをやっても、他の自己分析本をやってもこういう結果になった。











正直ずっと心のどこかにあった「お笑い芸人になりたい」って気持ちがここですごく揺れた。








でも厳しい世界だし、現実はそんなに甘くないと、常に自分に少し言い聞かせている感じだった。








そう思いながら、就職説明会や、エントリーシートを書いたりする日々を送っているときに、家にあった幼稚園のタイムカプセルを思い出して押し入れから取り出した。












タイムカプセルと言っても、瓶の周りを紙粘土で固めて、その上から好きな色を塗っただけの小さなものだった。












これは20歳になったら開けるものってことで、ずっと取っておいてあったんだけど、22歳になるまで忘れてて、就職活動ってタイミングで思い出した。










玄関の入り口でその瓶を上から地面に叩きつけた。






周りが粘土に囲まれているから「グッ」って鈍い音が出た。











コンパの最後に女の子に「連絡先教えてー!」と言ったときに「幹事の子に私が聞いてあとでLINEするー!」という100%連絡先教えたくないときの対処法されたときの俺の、

「グッ、おっけーわかったー」の「グッ」と同じ感じの音だった。








割れた瓶の中身はオレンジの画用紙と、白い紙が入っていた。













オレンジの画用紙には、当時幼稚園の頃の僕によるものであろう意味不明な絵が描かれてあった。









小さいときあんなにお絵かき好きだったのに、絵がまじで下手くそな上、何を伝えたいのか全く分からなくて半ギレ入った。






そしてもう一枚の白い紙には、母親から20歳の俺に向けてのメッセージが書かれていた。










そこに、

「将来お笑い芸人になりたいって言ってるからがんばってね」

と書かれていた。

















びっくりした。









小学生のときの夢はお笑い芸人になることだったのははっきりと覚えていたけれど、まさか幼稚園児のときから言っていたとは。













勉強も出来ないし、運動もできなかったけど、唯一誰に負けたくなかったのが「周りを笑わせる」ことで、それは大学生の頃までずっと信念として持っていた。











それを見ないように見ないようにずっとしていて、一年上の先輩に一緒に芸人になろうって言われたこともあったけど断ったりもしていた。









でもこのタイムカプセルの中身を読み終えて、二枚の紙をテーブルに置いた後、ベッドの横に山積みにされていた就職対策の本を押し入れに全部しまった。










心の片隅にずっとあった「お笑い芸人になる夢」を、暫定王座席に座る「就職」をどかしてそこに座らせた瞬間だった。












こうしてお笑い芸人になる道を選んで、大学卒業式終わりに、父親に死ぬほど長文のごめんなさいメールを送った。

大学まで行かせてくれたのにお笑い芸人になるのはさすがに人間終わりすぎてると思って。



そしたら返信は、












「オッケー、がんばってー!」

だった。












よくよく考えたら、幼稚園の頃父親にずっと「ダウンタウンのガキの使いつかいやあらへんで」を見させられてて、父親もお笑い好きだった。


その影響で俺もお笑いにめちゃめちゃハマっていった。






それとこれとは別だったと思ってたからすごく震えながら文章を打ったけれど、そのメールが来てすごく肩の荷がおりた。












それから、養成所の入学金を貯めるために一年間バイトをして、吉本のNSCに入学し、今に至る。








今コロナウイルスのせいで、ライブも仕事も全部なくなって、金もない、ハイパーニート生活だけれど、自分のやりたい仕事をしていると毎日心が明るいし、何より無理して生きてない。






この今の自分が好きだから絶対にお笑いは続けたいし、無くならないように努力しないとなって思ってる。








みんな人それぞれどこかに自分の個性とか、ストロングポイントが絶対にあるはずだから、今なんか自分らしくないなとか、自分が無理してるなと思ったらそこは自分に嘘つかないほうがきっといい。

お笑いでも、その人らしくないことをするとまじで周りも笑わないし、バレる。










僕はあまり普段ボケないからボケるとむっちゃスベる。どうした?みたいになる。








だから、皆さんも悩んでいることがあったら、自分らしい、無理していない自分がいる方向に進んだほうが良いですよ。

以上、魂の後半ノーボケnoteでしたますぃ!

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