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決して彼等のようではなく

どうも、砂の上にソフトクリームを落としてしまったけれども3秒ルールが適用されてまだ食べられますよスペシャルです。

それは冗談でして肝数値高男です。
大好きな歌手の1人でもある ASKA さんの公式 YouTube チャンネルにて、期間限定で公開された「ASKA SPECIAL 音楽の聖地〜デヴィッド・フォスター共演〜」という動画を視聴しました。

もしかしたら、このテキストが公開されている頃には、動画は非公開になっているかもしれませんが、この動画が本当に素晴らしかった!

ASKA さんと言えば、1979年に「CHAGE and ASKA」としてデビューして、かれこれ45年という、半世紀近くに渡るキャリアを持っている日本を代表する歌手であり、やはりこれだけ長い期間になりますと、世の中の音楽のトレンドも変わるし、楽曲を作ったり、それを公開したりする上でのテクノロジー的なところも大きく変化していきます。
そして、多くのソングライターも、キャリアの中で音楽性というのは、ほぼ必ず変わっていくと思います。

長く活動をしているアーティストになりますと、どこで音楽性が変わって来て、今のスタイルになってきたのかというのを紐解いていくのが面白かったりします。
多くの方が知っている通り、ASKA さんの作る楽曲はデビューしてから10年目あたりから、1曲1曲が神ががって来たように思えます。
1989年に発表した「PRIDE」という楽曲を聴いたほとんどの方が、そう思ったのではないでしょうか。
あの曲は本当に素晴らしい曲です。

一体何が彼を変えたのか。それは過去の ASKA さんのインタビュー記事などを読めばいろんなところで語られておりますが、カナダ出身の世界的音楽プロデューサーの「デヴィッド・フォスター」さんの影響がとにかく強かったとのこと。
音楽オタクならばほとんどの方が知っているすごい人で、ホイットニー・ヒューストンやマイケルジャクソン、マドンナなどの世界的に著名なアーティストのアルバムをプロデュースしまくり、グラミー賞も16回も受賞したことのあるとんでもない経歴を持った方です。

音楽にそこまで詳しくはない俺でさえ知っている名曲「シカゴ」の「Hard to Say I'm Sorry(素直になれなくて)」を手がけた方でもあります。
ASKA さんが、まさにこのあたりのデヴィッド・フォスターさんの楽曲を意識して作った楽曲がまさに「PRIDE」であるという。そして1989年の発表から35年近くを経過した今、憧れのデヴィッド・フォスターさんと ASKA さんがコンサートで共演。彼の演奏で「PRIDE」を熱唱するという、とんでもなく胸熱なライブが行われたのですが、そちらのドキュメンタリー映像となっております。

この映像が「スゲー!」の連発で、感動しちゃいましたよ。まず前日のリハーサルの様子から。デヴィッドさんと ASKA さんが対面して、軽く挨拶をした後にデヴィッドさんが「音楽を演ろう!」と言い、そこからピアノがセットしてある舞台へ。何をするのかと言うと、デヴィッドさんがアドリブでピアノを弾いて、それに合わせて ASKA さんもアドリブで歌をうたいコミュニケーションを取るシーン。即興の曲なので歌詞もなく、ハミングで歌っているんですえけれどもこれが本当にすごい!このまま、このメロディに歌詞をつけたら有料で売れちゃうよ!ってレベルなのです。

音楽のプロフェッショナルはこう言うことを普通にやれちゃうから、本当にすごい。音楽に関しては完全に素人の俺は、モニターの前でただアホみたいに口を開いて観ていることしかできませんでした。
今回のコンサートでは、ASKA さんの娘で世界的に活動しているシンガーの宮崎薫さんも参加されているのですが、デヴィッドさんと ASKA さんの2人が、アドリブで演奏・歌唱しているところを後ろで嬉しそうに iPhone で動画を撮影しているんですけれども、これもなんだかたまらなくいいんですよね。

1991年にとんでもない勢いで大ヒットした名曲「SAY YES」の歌唱シーンのあと、ASKA さんのインタビューシーンへ。デビューしてからまもなく「万里の河」がヒットし、世の中の CHAGE and ASKA の印象がなんとなく定着してしまったとのこと。しかし、ASKA さんはこの印象のまま定着したくはなかった。「印象」は自分ではなく、相手が作るものだから、仕方ないところではあるんだけれども、しかしこの「印象」を変えるにはどうすればいいのかといろいろ考えた結果、「いっそのこと海外に住んだらいいのではないか。」と考え、海外移住を決意したのでした。

「ちょっとロンドンに行ってくるわ」のノリで、日本から遠く離れたロンドンに移住したのが、1990年の「SEE YA」の頃の話です。
ロンドンで制作し発売されたシングル「DO YA DO」が「万里の河」以来となるオリコントップ10入りを果たしたとのこと。この頃を振り返って ASKA さんは「印象ってこんなもんか」と思ったとのこと。

そうなんだ・・・全然知らなかった。「万里の河」から「DO YA DO」まで、「モーニングムーン」「恋人はワイン色」「WALK」「LOVE SONG」など、様々な名曲を生み出していて、順風満帆だったんだなと思っていたんだけれども、本人からしたら印象に縛られていて思い悩んでいたってことをはじめて知りました。

ロンドンでの生活の後に、ASKA さんは「太陽と埃の中で」や「はじまりはいつも雨」「SAY YES」など、日本の音楽業界で大フィーバーを起こしまくるのです。個人的にはそこから1993年の「YAH YAH YAH」までの間の1992年にリリースされた「GUYS」というアルバムがめちゃくちゃ好きなんですけれども、やはりこの頃の ASKA さんのストイックな姿勢には度肝を抜きます。
今の ASKA さんも音楽に対してのストイックさもとんでもないものでございますが、当時から ASKA さんってやっぱりすごかったんだなぁと、改めて思わされました。

この動画を観ながら「この頃の ASKA さんって、何歳なんだろう?」と思って調べました。ASKA さんは1958年生まれなので、ロンドンへの移住をした1989年の時点で31歳。ロンドンでアルバム「SEE YA」をレコーディングして発表した時の年齢が32歳。ガチョ〜〜〜〜ン!!!なんと言うことだ・・・今の俺と同じ年齢じゃないですかッ!
しかも俺、次の年齢で33歳になりますから。ASKA さんが33歳の年に「はじまりはいつも雨」「SAY YES」を発表していますからね。俺は一体何をやっているんでしょうか。

今の俺の年齢の時に、すごいことをしていた人は歴史上の人物にもいます。ASKA さんの話から少しそれますが、あの「坂本龍馬」が「海援隊」を結成し、革命を起こしたのが32歳ですからね。まだ二十歳そこそこの頃にこういう話を聞いたら「まぁそのくらいの年齢の頃は脂が乗っている時期だからねぇ〜。」だなんて、呑気に考えたりもしますが、実際にこの年齢になってみたら、自分の暮らしがなにも変わっていなくて、なにも結果を残せていなくて焦ります。

いやいや、なんで焦るのかも意味がわからないんですけれどね。向こうは日本を代表するシンガーの ASKA さんや坂本龍馬と比較するのもおかしい話です。こっちはデッカイドウの片田舎で地味〜〜〜に生活しているだけのおじさんですから。土俵がまったく違うので ASKA さんや坂本龍馬の生き方を見て焦る理由がなにひとつないんですけれども、なんだかわからないけれども俺も頑張らないと行けないなと思っちゃいましたよ。

いや、俺がめちゃくちゃ頑張ったところで、世の中がひっくり返るようなことって何もないんだけれども、せめて将来、自分自身で人生を振り返った時に「あの頃は本当に頑張っていたよなぁ」って思えるものが何か欲しいなと思いましたよ。それは、自分が今やっている仕事でもそうですけれども、プライベートでも然り。まさに今こんなふうに書いている文章でも、今の状態ではないもっと先の、誰かの心に刺さるような、自分でも誇れちゃうような文章を書きたいなと思ったりしました。


というところまで書いて文字数が3528文字になりましたので今日はこの辺でオヒラキにしたいと思います。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。明日も元気いっぱいにテキストを更新しますのでその時また会いましょう。 ・・・俺が逮捕されていなければ。

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