類は友

むかしから、「類はトモをよぶ」というコトバがあるが、コレはたしかにしんじつであり、ホントウのことかとおもわれる。
ニンゲンは無意識のうちに、じぶんとよく似たタイプのニンゲンであつまり、群れるという傾向・とくちょう・性質をもっている。

こういうことは、ガッコウにしろ、職場にしろ、ニンゲンがあつまり、集団になっているところであれば、いつの時代、どこのばしょでも、よく目にするかとおもわれる。

こういうことを、基礎・前提条件にしてかんがえると、「じぶんと親しい、仲のよい知人・友人とは、じぶんとよく似た一面・とくちょうをもっているニンゲンである」といえそうである。

ということであれば、じぶんがながねん付きあい、気が合い、かんけい性がつづいているニンゲンをみれば、じぶんのことが、よくわかるのかもしれない。
つまり、「じぶんと親しい、仲のよい知人・友人は、じぶんを映しだすカガミだ」といえそうである。

ニンゲンは、じぶんのことはみえない。だから、じぶん自身では、じぶんのことがよくわからない。
だから、「じぶんのことについて、よく知りたい」とおもうのであれば、じぶんと親しい、仲のよい知人・友人をみればよいのかもしれない。

良くも悪くも、そういう知人・友人は、じぶんのことを、よく表していそうである。
マキャベリは、「王がどういうニンゲンか知りたければ、側近をみればわかる」というイミのことを指摘したが、コレも、「類はトモをよぶ」ということが、基礎・前提条件になっているかとおもわれる。

権力をもっている王であれば、人事権をもっている。そして、人事権をつかって、じぶんのお気にいりを、側近にしているというケースがおおい。
ならば、その側近は、「類はトモをよぶ」という原則・法則に立てば、「王とよく似たタイプのニンゲンである」ということになる。

そしてコレは、今げんざいの時代においても、十分に通用するかとおもわれる。
つまり、じぶんがよく知りたいとおもうニンゲンがいるのであるが、そのニンゲン本人とは、ちょくせつ的に会うことができない。
そういうときに、そのニンゲン本人はムリであっても、親しい知人・友人であったり、側近のダレかと会うことができれば、「じぶんが知りたいニンゲンについて、どういうタイプのニンゲンであるのか」ということが、おぼろげながらもわかりそうである。

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