【おぼえがき】保育園の頃の記憶

子供の頃ぜんそく持ちだったので、たしかによく保育園(正しくは、わたしが通っていたのは「保育所」)を休んでいた。
が、

母や姉に言わせると、「ほとんど行っていない」というのだ。そんなはずはない。わたしの中では保育園の頃の記憶はものすごく、ものすごくたくさんあるのだ。
忘れないうちに、覚えていることを全部メモしておくことにした。

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■年中は、りす組。担任は中村和代先生。
■年長は、パンダ組。担任は松木典子先生。
■親たちが当番制で近所のみんなをまとめて送り迎えしていた。ぐるぐる巻きにした縄に巡回の名前が書かれた名札カードが付いているものが、当番札になっていた。
■毎日、ポンキッキが終わると同時に家を出る。基本はみんな車。うちは母が当時免許を持っていなかったので、じいちゃんが車を出してくれた。軽自動車に10人近くぎゅうぎゅうに詰め込んで乗っていた。助手席に3人とか。もう時効。
■車で送るひとがいない場合は、徒歩。子供の足だと30分以上かかる。徒歩の日はポンキッキが終わる前に家を出なくてはならない。
■わたしは基本的にひとりで遊ぶのが好きだった。ひとりで窓ガラスの数を数えたり、ひとりで園庭のきれいな小石を拾ったり。
■運動は好きではなかった。他のみんなと庭やプレイルーム(リズム室と呼ばれていた)で走り回るのは好きではなかった。基本的にははるかちゃんと一緒におひめさまの絵を描いたりしていた。当時はお絵かきが大好きだった。それなのに今はまったく絵が描けないの、なぜ。
■たまにおままごともした。誰かが作った紙粘土のプリンがお気に入りだった。
■はるかちゃんは近所に住んでいたが、途中で市内に引っ越してしまった。が、その後、偶然同じ高校になった。(しかし向こうはバスケ部、つまり上位カーストだったから1度しか会話しなかった)
■はるかちゃんの家で「おまる」を初めて見た。はるかちゃんの妹が使っていた。
■市内から引っ越してくる子、市内へ引っ越していく子は結構多かった。小学校へ上がる前に親が決断するパターンが多かったのだろう。
■当時は食が細く、ぜんぜん食べられなかった。今は食べたくでしょうがないのに。なぜ。
■給食はいい思い出がない。ただ、かきたま汁だけは大好きで、ごちそうさまをしてみんな遊びに行っちゃってるのに、ひとりで何度もおかわりして食べていた。
■好きなメニューはそれ以外ほぼなく、特にひじきが大嫌いだった。側溝にひじきによく似た便所虫という黒くて細い虫が山ほどいたのだが、ある日その虫がひじきの中に入っていて、さらに嫌いになった。親に話してもそれは見間違いだ、気のせいだ、と言われた。ほんとなのに。
■月曜はパンが出た。他の日は家から白飯だけを持っていってた。
■パンは地元のカドマンというパン屋のコッペパンなのだけど、ものすごくおいしくて、姉が食べたいから残してきてくれと言うほどだった。わたしは食が細くて食べられないからむしろ好都合だった。カドマンは今はもうなくなってしまった。
■カドマンは病院の近くにあったので、病院へ行った帰りによく買って帰っていた。チーズロールもハムパンもおいしくて、でも1番は牛乳パン。長野県民にはお馴染みの牛乳パン。
■家からごはんを持っていく場合。冬はストーブに設置された網棚に弁当箱を置いて米を温めておくという都合上、プラスチックではなくアルミの弁当箱が推奨されていた。棚にコーティングされていたビニールが溶けて、わたしのお気に入りのナプキンにくっついててショックを受けた。
■夏場に使っていたのは、ドラえもんのピンクのプラスチックの弁当箱だった。大き目だったので、ご飯は半分より少ない量しか入っていなかった。弁当箱をぶんぶん振って、中でおにぎり状にするのがみんなのブームだった時期があった。
■袋に入った海苔の佃煮(アラ!)を、先生が自分の箸の持つ方を使ってちょっとずつ絞り取ってみんなの白飯に乗せていった。お箸の口にいれない方を使う、という所作をこのとき知った。が、何か嫌だった。
■おやつの時間もあった。おやつもあまり食べられなかったが、フルーチェ(とみんな呼んでいたが、実際はフルーツ缶のヨーグルト和え)は大人気でわたしも好きだった。他は、太い魚肉ソーセージを揚げたもの、大豆に青のりの衣をつけて揚げたもの、などは好きだった。
■おやつの前にはお昼寝の時間があった。ごはんより運動より、昼寝がいちばん苦手だった。今はこんなに欲しているのに。
■お昼寝は1時間くらいだったと思うが、まったく眠れず、タオルケットの糸を引っ張り出して口の中に入れていた。ピンクの部分はいちご味だった。
■親指と小指を曲げて「キメ!」のポーズを練習したのも、お昼寝の時間だった。
■眠っていない子には先生が添い寝するのだが、足を挟まれて隣に寝られるのが本当に嫌だった。親族でもない大人が隣に寝るのが気持ち悪かった。
■昼寝の間に先生たちは教室などの掃除をしていた。
■布団をしまっておく部屋の奥に「ねずみの部屋」と呼ばれる扉があった。悪いことをするとその部屋に入れられるという噂があった。いちど、ゆきおくんとひろあきくんと帰り道の話をしているうちに盛り上がってしまい、テーブルにクレヨンで地図を描いたら先生に怒られて、あやうくねずみの部屋に入れられるところだった。
■ボディペインティングというイベントがあった。絵具で色をつけたのりをパンツ一丁になってみんなで体に塗りたくりあって遊ぶというものだった。途中でやすしくんに砂をかけられて、ものすごく嫌だった。
■姉のおさがりのセパレートの水着だったのだが、すごく冷やかされた。隣のクラスからも男子がやってきて、廊下の窓のところからカシャカシャとシャッターを押す真似をたくさんされた。嫌だった。
■プールと建物のあいだのルートのアスファルト部分で転んでひざを擦りむいた。お気に入りの水色の水玉のスカートに血がついてすごく嫌だった。その傷はなかなか治らず、しばらく跡が残った。
■毎月、キンダーブック的なものが全員に配布された。典子先生が名前を書いて渡してくれるのだが、その名前書きをしているところを見ていたら、まちがってまさよしくんの名前を2冊書いてしまって、名前のところに黄緑の紙を上から貼ってよしのり君の名前を書き直していたところ、別の先生がやってきてその黄緑の部分を見て、新しいタイプの本を仕入れたのかと思った~と言っていた。
■その本は月が終わると家に持ち帰るのだが、そのために「本袋」を持っていくことになっていた。たいていみんな母親が手作りするもので、うちの母は動物の絵がついた布やひもがセットになって縫うだけでいいキットみたいなのを買って作ってくれたのだが、わたしはすごく気に入っていたのにみんなから「手作りじゃないだろ」「買ったんだろ」「そのイラストはお母さんが描いたのか、違うだろ」と言われた。みんなだって生糸を織って布から作ったもの使ってるわけじゃないのに。市販の布なのに。嫌だった。
■園庭の脇にある畑でラディッシュを育てた。初めて見る野菜だった。きっと家族はこんな野菜知らないと思ったので、家に帰って母親に自慢した。
■ストーブの近くでヒヤシンスの水栽培をしていた。土が無くて冬でも咲く花があるなんて、家族は知らないと思ったので、家に帰って自慢した。
■歯医者だか耳鼻科に行くため昼寝をせず早退することになり、縁側みたいなところでシンデレラを読みながらひとりで迎えを待っていた。1つ上のサトルが昼寝を抜け出しフラフラしていて、相手になってくれて退屈ではなかった。サトルは多動だったりする部分があって敬遠されがちな人物だったが、意外と普通に話せるんだな、くさいけど。と思った。迎えに来た母が、わたしとサトルが一緒にいるのを見てちょっと驚いていた。
■バスで親子遠足へ行ったとき、天狗広場のアスレチックからあきちゃんが落ちて腕を骨折した。骨折している人を初めて見た。あきちゃんは非常におてんばっ子なのであまり驚きはなかった。
■のぶくんは年少だけど、年少が数人しかいなかったため年中のクラスに入っていた。運動会で男の子と2人1組で走るという競技があったのだが、わたしはのぶくんとコンビニなった。が、のぶくんはお母さんを見つけて走っていってしまい、ひとり取り残されたわたしは先生と一緒に走ってゴールした。数年後に本人にその話をしたが、もちろんまったく覚えていなかった。
■トイレは先生用だけ大きくて、真ん中にあった。ロールのペーパーではなく、いわゆる「白チリ」を使っていた。2枚重ねにして4つ折りにする、という作業があって、折り紙感覚ですごく楽しかった。
■夏場は上履きを履かず裸足で過ごしていた。なので、夏場はトイレに専用のサンダルが置かれた。が、ボットン便所だったためみんなよく中に落としていた。
■園児服のことを「えんじゅふく」と呼んでいた。

……書き始めたら、記憶が山ほどあった。こういうどうでもいいことばかり覚えているから、大事なことが全然覚えられないんだなとつくづく感じた。


おわり。

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