垂直のポリフォニー
写真の抽象画はパウル・クレーの「ポリフォニー」先週、偶然入った喫茶店でこの絵を見つけた。最近またODにコミットし始めたからポリフォニーとかリフレクティングとか違う意味でも反応してしまう。ここ最近ちょっとシンクロっぽい考えに触れたので書いておく。
斎藤環さんによるとポリフォニーには水平のポリフォニーと垂直のポリフォニーがあるそうだ。水平はおなじみの一人一人の多声性なのだけど垂直の方は自分の中の多声性つまりこうゆうことだと思うんだけど..
「沈黙」は垂直のポリフォニーを高めるのだそうだ。それは水平のポリフォニーと同じくらい大切らしい。自分自身の中のペルソナ例えば会社員である自分、娘である自分、妻である自分、雑踏の中の一人である自分、SNSの中の自分、親友である自分など他者によって映し出される自分。その”自分たち”とコミットする事、柔軟性を保つこと。新しい自分が生まれているのを認める事。それはたしかに喋りっぱなしではできない。
図書館で平野啓一郎さんの「空白を満たしなさい」という小説をなんとなく手に取ったら読むのがやめられなくなって一気に読んだのだけど内容は置いといて、その中の「分人」という概念にちょっと驚いた。これは「個人」に変わる概念で、今までの「個人」が整数だとしたら「分人」は分数のようなもの。夫の前の自分、友人の前の自分、会社の人たちの前の自分など付き合う人によって自分の中で自然に変わる人格が何個もの「分人」になって自分を構成しているのだと。その中には自分もまだわからない「分人」もいるようだ。「分人」で考えるとこの小説の主人公の色々な矛盾や謎が溶けてゆくのだが、あ、垂直のポリフォニーと何か似ていると感じた。ちなみにこの文庫は上下巻あってゴッホの自画像が大きなポイントになっている非常に興味深い小説だ。10年の画家人生で約40点近い自画像を残したゴッホ、彼の中の分人とは?彼の死の真相が主人公とどう繋がってゆくなどミステリーとしても面白い。ちなみにこの「分人」という概念はやはり反響が大きかったようで「私とは何かー「個人」から「分人」へ」という新書も出ていた。
「分人」と考えるとその人格は自然に発生する場合もまた消滅する可能性もあり。それもまた自然と考えられ、自己の確立とか自分探しなどという面倒なものをしなくて良い可能性がある。自分のわからなさが当たり前の世界。流動性。
ところで、私は坂口恭平さんのファンである。精神医療の大家,そしてオープンダイアローグの日本での提唱者である斎藤環さんも坂口さんの活動に大きな興味を持っていて康跡学(サルトグラフィ→従来の病理的側面から天才の創造性にアプローチする病跡学とは反対で健康生成論の視点から創造性を検討する)で彼に関する論文を書いている。新刊の斎藤環さんとの対談書簡「いのっちの手紙」が面白かった。そこで坂口さんの多様かつ大量な創作活動の謎を斎藤さんが尋ねる回がある。坂口さんの「ある芸術家の別の側面だけが異常に好き」という話が出てくる。作品自体はほとんど知らないのに考え方が大好きな人が多い、例えば北野武の映画はほとんど興味がないが彼の方法論は(日本ではお笑いをやっているが、映画は全く違うことをしている、全く別人格で統一させようとしていないなど)参考にしているのだそうだ。読み進めると村上春樹、ゴダール、ドゥルーズなどなど方法論としていろんな人格をナチュラルに潜在化させている印象。単なる多重人格にはならないところが坂口恭平の特異なところだがこれは分人を意図的に創る試みをナチュラルに知っているのかなと思った。
分人、垂直のポリフォニー、いろんな人格を潜在化・・・「自分探し」などではなく、自分の心を大きな一つのものと考えずどれだけ多様な面があるかとことん意識して追求してみるってことがあってもいいのかもしれない。