母のこと

 noteをつけることにした。年末母が倒れてから、ちょうど一か月経った。日本にいる母、アメリカにいる私。2019年6月に私が大学院のためにアメリカに戻ってから、父と母二人の暮らしだった。祖父の代から50年以上住んでいた、家業の本店として祖父が建てた小さな古いビルを処分し、母が暮らした実家を改装し2018年夏に移り住んでから、一年と約5か月後のことだ。

 母の実家は大正時代に建てられた古民家で、その古民家らしさをどうにか残したくて、2017年から家族で相談を重ね(私はアメリカから)、家の基礎から耐震補強を行い大がかりなリノベーションを行ってようやく完成した新居だった。2018年夏の引っ越しは大阪北部地震や二度?の大阪直撃の台風の中3か月近くかけて大汗をかいて行った。ようやく落ち着いて新居で生活できるようになったのはもう秋のことだった。元々祖父母の家には品の良い古道具があり、できるだけそういうものを残したいねと、リノベーションが終わった後外に預けていた家具や道具や着物などを、また元に戻したのだった。特に母が父の家との結納を取り交わした二階の和室は雰囲気がよく、そのまま残してもらうことにし、母は殊の外気に入っているようだった。それから、小さな庭ーー本当に小さなものだが、私は庭というものがある家に住んだことはなかったので、自然と言うものがただそこに在るだけで、こんなに気持ちが穏やかになるのだと初めて知ったのだった。一日中眺めていても飽きることがない。引っ越した最初はリノベーションのために不要な程伸びた枝を切ったり、山茶花などは丸はげになって、また花がつくのかとひやひらしたものだったが、その冬になるとぽろぽろと鮮やかな花をつけ始め、庭に彩を再び添えてくれるようになった。その庭は父と母があーでもない、こーでもない、とあれこれ言いながら造っていった庭だった。私がアメリカに発つ頃にはようやっと庭らしい様子になって来て、しかしまだ二人はあれこれ思案して増やして行っていた。年末には山茶花がまたきれいな花をつけたよ、と母から写真が送られて来た。

 そう、そんな風に、リノベーションした母の実家での暮らしがスタートして、一年と約五か月、たった一年と五か月で、母が倒れたのだった。家を手放しリタイアを決め、自分の育った家に戻り、やっとゆっくり過ごせるようになった矢先に。

 なんて人生はままならないんだろう。私は自分が2年の大学院修士プログラムを終えるまで、そんなことが起こるなんて、これっぽっちも考えていなかった。引っ越しを終えた時に、格子のある新しい我が家、そして懐かしい母の実家の前で家族写真を撮ろうねと話していたのに、タイミングを逃して撮ってもいなかった。明日がいつでも来ることなどないのは知っていたのに、どうして来年帰ったら撮ろうね、などど気楽に言えていたのだろう。

 母は今、病院にいる。一度目の救急搬送では見つけてもらえなかった、心臓大動脈解離が虚血を起こして脳梗塞を併発させた。二度目の救急搬送でも何度目かのCT画像でようやく解離がわかり、心臓の緊急手術を先に行った。それが年末のことだ。手術は無事に終わり、脳梗塞から左半身に麻痺が残ると言われたが、母も意識が戻り、声が聴こえているようで、私達家族は、麻痺が残るのは残念だが、良かったよかったと、胸を撫で下ろしたのだった。それが。お正月二日、アメリカでは元日に、脳の状態が急変した。母は意識を失い、緊急手術が必要となった。手術をしてももしかすると植物状態になるかもしれないと言われたが、私たち家族は、手術をお願いした。3時間で済むと言われた手術は8時間かかったが無事に終わった。手術は昼から夜まで行われたが、携帯越しにしか様子が分からないアメリカにいる私には手術が終わったという連絡をもらうまでの夜から朝までの時間はもちろん一睡もできない、とてつもなく長い時間だった。医師が手薄なお正月中に、最善の処置をしてくれた病院には感謝は尽きない。手術室に入る前に、私の声を届けてもらった(集中治療室では携帯は使えないため、音声データのメッセージを預けたのである)。その時母は、涙を流していたという。手術に入る前には、意識が戻っていたのだ。

 それから、ちょうど一か月経った。母の脳はまだ腫れが残り、開頭手術した頭蓋はまだ開いたままだ。手術後すぐは、自発呼吸が出来ず、人工呼吸器をつけていたが、これがひどく苦しいようで、家族の呼びかけにも殆ど反応しない。治療が長期に渡ることもあり、気管切開をしてカニューレを装着することになった。緊急時の人工呼吸器がどんなに苦しいか、いくつか当事者ブログなどを拾い読み、その辛さに眩暈がした。通常は手術などで数時間から多くて二、三日のことらしいが、それでも地獄のような苦しみだという。母はそれを二週間もしていたのだ!気管切開の手術後、すぐに楽になるかと思ったが、やはりそう言う訳にはいかず、苦しそうな様子が続く。それでも普通病室に移って携帯越しに声を掛けられるようになってから約二週間経った。この数日、母の様子に落ち着きと、外界の声への反応が見られるようになった。時々は私達の言葉に、分かっているような反応を返すことがある。それだけで、飛び上がる程嬉しくなる。昨日など、携帯のカメラ越しにこちらが笑うと少し口角が上がったように見えた。母が笑った!笑った!

 今は、母の好きな映画音楽を掛けたり、毎日の生活を報告したり、声かけを続けている。少しでも記憶がつながるように。少しでも母自身の意識がはっきりするように。話せる日が来ると信じて毎日を過ごしている。

 アメリカからできること、物理的には多くはないが、毎日一時間以上母と携帯越しに過ごしている。(毎日病院に通っている父のお陰である。)いつも私のことを心配してくれている母に、応えられるように、私はアメリカでの生活をきちんと送りたい。心の半分は日本に置いて、母の側にいる。その上で、どうにかやっているのは、twitterにいるやさしいフォロワーさん方、こちらにいる友人たち、周りの人のお陰だ。

 人は一人では生きられない。でも、立って歩き続ける意思は自分自身でしか持つことが出来ない。それを支えてくれる周りの方々に感謝を。

 そして、お母さん、大好きだよ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?