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つながりと没入感

生活がだんだんオンライン化し始めたころ、「もしかしたら、この生活でも連絡を取るか取らないかで大切な友達とそうでないかが分かれるかもしれない。」と言った人がいた。実際、話す機会が減って心の距離が遠くなったと感じた友達がいる。非常事態宣言が解除され、みんなが様子を見つつ外に出始めたころ、近所に住んでいる友達から「そろそろ会おうよ!」とメッセージがきた。正直、誘われて嬉しかった。このまま友達でなくなってしまうんじゃないかという不安が、心のどこかにあったから。お店には行かず、家にお邪魔して、おやつは個包装のものを選び、なるべく正面を向いて話さないように、と色々なことに気を付けながら久しぶりの時間を過ごした。他愛もない話を、何時間もし続けた。非常事態宣言が解除されたとはいえ外に出ることにはまだ消極的なわたしでも、会ってよかったと心から思った。楽しくて、嬉しくて、課題やオンラインイベントの準備に追われて疲れていたわたしの心はすっかり癒された。オンライン生活の中で話すことは減ったものの、その子はやっぱり大切な友達だった。実は初めの頃にzoomで繋がろうともしたが、たった一度きり。楽しかったけれど、どこか物足りなさがあったのだ。zoom飲み会と家での談笑、何かがちがう。空気感、一体感、雰囲気…そういったものが伝わらない?でも、授業で先生が熱く語ればその熱量は伝わって来るし、わたしたちが真剣に聞いているのも、先生には伝わっているらしい。熱量や雰囲気を伝える/受け取ったり、共有したりすることがオンラインでも出来るというのは、実感として分かっていることだ。

3月のある夜、ゼミ生と二人でzoom上で会った。zoomを繋いで、二人のお気に入りの番組を同じタイミングで再生し一緒に観たあと、だらだらと他愛もない話をした。2、3時間経ったとき、わたしはとても不思議な感覚を味わった。その人が、わたしの部屋、わたしの目の前にいる感覚があったのだ。心底驚いた。そこにいないはずなのに、たしかにそこにいる感覚。恐怖すら感じた。その後、同じゼミ生とzoom上で会っても、他の人と会っても、あの感覚を味わえたことは一度もない。あの時の不思議な感覚は何だったんだろう。忘れられないその感覚を思い起こすと、頭に浮かぶのはその人の顔でもなく、話の内容でもなく、わたしの部屋、その時いた角度からの映像。ベッドに座り壁に背をもたせて、部屋の真ん中を向いていた。自分がいるその環境とPCの向こう側にいるその人が、たしかに融合していたのだ。会話の内容はあまり覚えていない。きっと、夜の遅い時間でぼーっとしていたせいだろう。わたしの意識はオフラインとオンラインとを行き来していた。相手に集中していない状態とも言えるかもしれない。リアル空間で、例えばカフェにいるとき、そこは二人だけの空間ではない。おもしろい絵が飾ってあったり、コーヒーがちょっぴり薄かったり、斜め後ろのママ会からなんだか興味深い話が聞こえてきたり。二人を取り巻くモノがあり、人がいて、雰囲気がある。二人の間をつなぐものと言うか、間(ま)そのもので溢れている。あの日はうつらうつらしていたおかげで、わたしは間に身を置いていたのだろう。でもふつうは、zoomで繋がっているとき画面の向こう側に見えるのはその相手だけ。相手と画面越しに繋がろうとすればするほど、相手以外のものに意識が向くことはなくなる。二人のあいだから間がなくなっていく。

オンラインであの感覚をもう一度味わうことは難しいのだろうか?相手以外に意識を向ける時間を共有出来て、間(ま)がある状態。それがあの時の感覚を味わうために必要だとするなら、わたしが最近よく参加する読書会というのが一つの方法かもしれない。わたしがこの間主催したオンライン読書会は、読書会中に本を読む時間をつくり、同じ時間に同じ本を読んで、その本から感じたことや考えたことを話し合う。オフラインにある本とオンラインにいる相手とを行き来する。そして参加者のあいだには、間(ま)として本がある。この前の初めての主催は緊張しすぎて自分の感覚にまで注目することが出来なかった。もしかしたら、次はあの特別な感覚を味わえるかもしれない。夏休みに入ったら、大切な友達と一緒に読書会を開いてみよう。

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