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「学び」は余白を生み出す行為

3月は読書する時間がたっぷり取れそうなので、研究室からいくつか本を借りてきた。そのうちの一冊は佐伯胖氏の「学び」の構造。(面白くてあっという間に読んでしまった。)学びというと、わたしにとってはほとんど娯楽のようなもので、自分のためでも社会のためでもなくただ楽しいから学ぶという感覚だった。本に書かれていることと読んで感じたことから、学びとは何なのかを考え、学びの意味を捉え直す。


この本の第2章には「おぼえる」と「わかる」のちがいについて書かれている。私は「おぼえる」と「わかる」をそれぞれ
「おぼえる」=物事を、自分とは別物として頭に入れる行為、すなわち考える余白のない行為
「わかる」=物事をわたしの文脈で理解し納得していく行為
だと捉える。
この章で筆者は「わかる」を
未知のところがわかる
→絶えず問い続けていく
→無関係であったもの(自分の経験や他の文脈にあるモノ)同士が関連付いていく
ことだとしていた。そう捉えると、「わかる」ことは「わかりつづけていく」ことであって、「わかる」ことは学ぶことだと言えるだろう。
未知のところがわかるというのはつまり、物事に未知の余白があり、その余白を認識できるということで、絶えず問い続けていくというのは、その余白が何なのかを問い続けたり、気が付いていない未知の部分(余白)がないか探し続けるということだろう。すなわち、わかろうとするという行為は余白があるからこそできる行為であって、余白を認識したり新たな余白を探すというのはそれを生み出すことだ。わかりつづける(→学ぶ)という行為は余白を生み出しつづける行為であるといえるのではないかと考える。


余白を生み出せば、学びは高まり、深まり、豊かになる。余白を生み出す・学びを高め深めるということは、物事のそのままを疑い、そのままを受け入れようとしないということだ。現状維持・閉鎖的な人生や世の中を豊かだとは言えないだろうから、高め深めつづける「学ぶ」という行為は結局人生や世の中を豊かにするために必要なことなのだ。

高め深めつづけていく学ぶことというのは最終的に人生や世の中を豊かにするためになる。とても可能性に溢れた行為だ。だがそれを先に目的とすると学びは先の見えない・終わりのない努力と捉えられかねないと思う。挫折や諦めにつながる捉え方だ。やはり、自分にも社会にも目的を持たず貪欲に、純粋に「学びたい」「学ぶことはたのしい」と思えることも大切になるだろう。知的好奇心を持つことだ。もともと知的好奇心にあふれている子どもがそれを失っていくのは、学びの作業化によるのだろう。学びが作業と化してしまうような余白のない教育は、学びを教えているようで学びを阻害している。教える側も学んでいく側も学びを余白を生み出す行為と捉えることで本当の意味での学びが叶うのではないかと感じた。


また、わかる(学ぶ)こと=問い続けることをある程度進めていくと、自分の視点だけでは足りなくなってくる。そこで必要なのは自分以外、つまり他者の視点だ。そういう意味で学びは他者に開かれている。さらに、絶えず問い続けていくというのは絶えず変化していくということだろう。すなわち学びは不変的、確定的なものでなく、未来に開かれている。学ぶという高め深めつづけていく行為は、他者と未来に開かれてこそ意味のあるものになるのだと思う。私自身の学びをただ楽しいという段階から、もう少し高度な、他者と未来に開いたものにしたいと思えた。

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