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文章力向上道場

伝わる文章は“オレンジジュース”

野菜ジュースとは、十数種類の野菜や果物が“足し算”によってミックスされた飲み物である。栄養のバランスはとれているのだろう。しかし、野菜ジュースを飲んでいても、自分がなにを飲んでいるのかよくわからないところがある。トマトなのか、ニンジンなのか、リンゴなのか、セロリなのか、ほうれん草なのか。いろんな野菜・果物が混ざりすぎて、「◯◯味」と表現しづらいのだ。さらに、それらの原料が濃縮還元されているため、決して飲みやすいとも言えない。一方、オレンジジュースは“引き算”の飲み物である。オレンジジュースの面白いところは、「おいしさ」や「飲みやすさ」を追求するなかで、自らの果汁すらも“引き算”している点だ。果汁100パーセントのオレンジジュースでは、果汁を30パーセントや10パーセントまで減らすことで「おいしさ」や「飲みやすさ」を実現している。もちろん、果汁を減らしても甘みや香りは残されている。特徴的なオレンジ色だって、しっかりと残されている。いや、残されるどころの話ではない。甘味料や香料、着色料を加えることで、強調されているくらいだ。なぜなら、それが“引き算”によって浮かび上がったオレンジの本質だからである。たとえば、「オレンジの“色”は無色透明でも大丈夫か?」と考えてみよう。「オレンジ色の砂糖水」を飲んだとき、多くの人はそれを「オレンジジュースっぽい飲み物」と認識するだろう。オレンジの味はしないけど、トマトジュースやリンゴジュースではない。この色は、とにかくオレンジジュースっぽいなにかだ、と。一方、「無色透明のオレンジ味飲料」を飲んだときは、どうだろう?舌がびっくりして、頭が混乱するのではないだろうか?オレンジっぽい味がするけど、だとしたらこんな色をしているはずがない、これはきっと別のなにかだ、と考えるのではないだろうか?オレンジジュースにとっての「オレンジ色」は、それほど重要で、絶対に“引き算”できない要素なのである。おそらく、オレンジジュースにとっての「大切なもの」とは、①色、②甘み、③香り、そしてかなりの周回遅れで④酸味、という順番になるはずだ。これは“引き算”のプロセスがあるからこそ、見えてくるものである。pp.236-237

まずは頭の中の“ぐるぐる”を紙に書きだす

くり返すが、素材や題材を「探す」必要はない。書くべきものはすでに揃っている。問題は、それが見えていないことだ。見えていないのだったら、話は早いだろう。強引に可視化してしまえばいいのである。目を閉じて頭のなかでごちゃごちゃと考えるから、見えなくなる。ちゃんと目に見える形にしてから“編集”していけばいいのだ。そして頭の中を可視化するには、紙に書き出すのがいちばんである。p.239

つらつらと書き出しただけのキーワードでは、内容に偏りが出てしまい、文章の“伸びしろ”がなくなってしまうのだ。p.242

なぜなら、ぼくは想像力あふれる“天才”ではないし、非礼を承知で言えば、この講義を受講しているあなたも“天才”ではないはずなのだ。天からすばらしいアイデアが降ってくることもないし、突如として文章の達人になることもない。自分のなかにある“元ネタ”を根気強く取り出し、峻別していくしかない。どんなに文章が得意でも、自分の力を過信してはいけないのである。p.243

下手な文章術より映画に学べ

しかし、映画は時間の芸術だ。削らないことには映画にならない。ぼくレベルの自主映画ですら削る必要に迫られるのだから、商業映画ともなればもっと大変な作業だろう。苦労して撮影したカットに、身を削るような思いでハサミを入れていく。1秒単位のムダを排除していく。その結果、ようやく1本の映画ができあがる。だから、どんな映画でも監督にとって無駄なカットは1秒たりとも存在しないし、監督はすべてのカットに関して「なぜこのカットがここに入るのか」、雄弁に語ることができるはずだ。pp.246-247

そして文章を書く上においても「なぜここにこの一文が入るのか」、あるいは「なぜここにこの一文が入らないのか」をしっかりと説明できる自分であらねばならない、と思うようになった。というのも、面白くない文章とは、なによりも冗長なのだ。余計なカットが入りすぎて、削るべき一文・一節を「情」を理由に削り切れていない。読者にとって冗長な文章ほどつらいものはないだろう。
だからこそぼくは、みんな“編集者”の眼を持つべきだと思っているし、下手な文章術を学ぶよりも、編集の見事な映画をじっくり鑑賞するほうがよほど文章のトレーニングになると思っている。p.247

「もったいない」のサンクコスト

そして、推敲するにあたって最大の禁句となるのが「もったいない」である。こんなに頑張って書いた箇所を削るなんて「もったいない」。せっかく何日もかけて調べたから、どこかに入れないと「もったいない」。あれほど盛り上がった話を入れないなんて「もったいない」。そう考えてしまう気持ちはわかる。痛いほどわかる。ぼく自身、日々のこの気持ちに襲われるといっても過言ではない。しかしこれは、読者となんの関係もない話だ。読者は、あなたの「がんばり」や「悩んだ量」を評価するのではない。あくまでも、文章の面白さ、読みやすさ、そして書かれた内容について評価を下すのである。pp.249-250

 なぜ文章を切り刻むのか?

読み返すなかで、少しでも長い文章を見つけたら、さっさとハサミを入れて短い文章に切り分けたほうがいい。理由としては、大きく次の3つが挙げられる。
①冗長さを避けてリズムをよくする
②意味を通りやすくする
③読者の不安をやわらげるpp.251-252

特に、読点を3つも4つも使ってつなげているような文章は、どこかで切りどころを考えるべきだ。そして当然、文章は短く切ったほうがリズムもよくなる。p.252

もしあなたが接続助詞の“が”を多用しているようなら、そこにハサミを入れられないか、あるいは別の言葉に言い換えられないか、考えるようにしよう。p.254

図に描き起こすことができるか? 映像は思い浮かぶか?

論理的な文章を書こうとするとき、次の問いにチャレンジしていただきたい。「この文章を、図に描き起こすことはできるか?」論理的な文章を書こうとするとき、図(絵コンテ)にして考えるとわかりやすい、という話は先にも紹介した。だったら、今度は「自分の文章を図にすることはできるか?」と考えるのだ。もしも論理的に書かれた文章であれば、その主張や論理展開をシンプルな図に描き起こすことができる。しかし、支離滅裂な文章だとうまく図にすることができない。矢印がつながらなかったり、順番がおかしかったり、論の展開に必要な要素が欠けていたりする。(中略)図解とは、書く前だけでなく、書いた後にも使えるツールなのである。pp.256-257


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