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文章力向上道場

「生理的に嫌いな文章」に注目する

誰だって、なんとなく嫌悪感を抱いてしまう文章はあるだろう。書いてある内容ではなく、その「書き方」が嫌だ、という文章だ。どうして、その文章が嫌なのだろうか?自分はどこに嫌悪感を抱いているのだろうか?「上から目線で偉そうに書いてある」「読者に媚びるように、へりくだって書いてある」「肝心のところで自分の意見をぼかし、逃げている」「一方的な決めつけが多くて納得できない」「表現がまわりくどい」いろんな理由が浮かんでくるだろう。そこで、もう一歩踏み込んで「なぜ自分は上から目線が許せないのか?」「どうして媚びた態度に虫唾が走るのか?」「まわりくどい表現のどこが嫌なのか?」と考えてみよう。

たとえば僕の場合、読者に媚びを売るようにへりくだって書かれた文章が好きになれない。うまく書けないが、雰囲気としては次のような文章だ。「これは私の勝手な想像でありますし、もし間違っていたら申し訳ないのですが、最近の若い方々はどこか政治への関心を失いつつあるのではないかと思われるのです」なるほど丁寧である。しかし正直な話、読んでいて虫唾が走る。素直に「最近の若者は政治への関心を失っているのではないか?」と書けばいいじゃないか、と無性に腹が立ってくる。なにがそんなに嫌なのか?自分なりに考えてみると、読者に媚びた文章とは、読者をバカにした文章に思えてしまうのだ。「ここまでへりくだっておけば文句は出ないでしょ」と高をくくっているように感じられるし、足元を見られているような気がしてしまう。つまりぼくは「読者に媚びる書き手」が嫌だったのではなく、「読者をバカにした書き手」が嫌だったのであり、「書き手からバカにされること」が嫌だったのである。だとすれば、書き手としての自分がどうありたいのかもわかってくるだろう。読者をバカにすることなく、読者と正面から向き合いたい。(中略)このように、自分の“嫌い”を深く掘り下げていくと、最終的に書き手としての自分はどうありたいのか、という潜在的な欲求が明らかになってくる。pp.176-178

「読者はどんな姿勢で」読んでいるか

しかしぼくは、いかなる読み落としや誤読も、最終的には書き手の責任だと思っている。情報とは、そこに書いてあればOKというわけではない。伝わるように書いてこそ、文章としての機能を果たすのだ。(中略)ぼくの答えはひとつ、「読者の“姿勢”を変えること」だ。のけぞった態度をやめ、鼻をほじるのをやめ、もっと身を乗り出して、一心不乱に熟読してもらう。気分的に「あちら側」にいる読者を、「こちら側」に引き込むのである。pp.182-183

“説得”せずに“納得”させる

はたして読者は、書き手から“説得”されたいと思っているのだろうか?そんなはずはないだろう。上から押さえつけるような“説得”に対しては、読者は必ず反発する。押したら押しただけ、反発してくる。これは先にも触れた「作用・反作用の法則」であり、どうやっても避けられないことだ。だからこそ、反発されても倒れないだけの強固な骨組み(論理)が必要なのだが、ここにはもうひとつの道がある。pp.184-185

①説得・・・押しのアプローチ(読者を押しきる)
②納得・・・引きのアプローチ(読者に歩み寄ってもらう)p.185

歴史の教科書で、徳川家康についての記述が5ページ掲載されていたとする。その内容は「これを覚えろ」「これを知っておけ」「こっちも忘れるな」と、一方的に知識を押しつけてくるものだ。まさに“説得”のアプローチである。一方、家康を主人公とした歴史小説は、ことさらになにかを覚えろとは言わない。読者が歩み寄って、江戸幕府の政策、同時代を生きた周辺人物などが理解できるようにできている。「物語」という武器を使いながら、読者の“納得”を誘っているわけである。pp.185-186

人は「他人事」では動かない

しかし、われわれは「正しい」だけでは動けないのだ。頭で「正しい意見だ」と理解できても、肝心の“心”が動かないのである。一般論を述べるばかりの文章が心に響かない理由は、ここにある。主張のどこかに「これは他人事じゃない!」と思わせる要素が含まれていないと、われわれの心は動かない。当事者意識を芽生えさせ、他人事を「自分事」に変換してくれる、なんらかの仕掛けが必要なのである。p.189

“仮説&検証”で読者をプレーヤーにする

まず必要なのは、読者を「議論のテーブル」につかせることである。独演会のようにあなたが一方的に語るのではなく、なにかしらのテーマ(議題)を設定し、読者を交えた形で活発な議論を交わす。そうなれば読者も、もはや他人事ではなくなるし、身を乗り出してくれるはずだ。議論のテーブルをセッティングする方法は簡単である。あなただけの“仮説”を提示することだ。文中の早い段階で、独自の“仮説”を提示する。一般論とは相反するような“仮説”だ。そして読者に「あなたはこの仮説をどう思うか?」と問いかけ、読者と一緒になって、その“仮説”が正しいのかどうかの検証作業にあたるのである。p.190

読者を巻き込む「起“転”承結」

しかし、あらゆる“主張”は仮説なのである。極端なことを言ってしまえば「人を殺してはいけない」も仮説だし、「ものを盗んではいけない」も仮説だ。問題は、仮説を自分ひとりで片付けてしまうのか、それとも読者に問いかけ、一緒に検証していくのか、という点にある。p.194

冒頭に「真逆の一般論」をもってくる

ポイントは、“転”ではなく“起”だ。「冒頭にどんな一般論を持ってくるか?」こそが、もっとも大切なのである。p.195

文章の「起“転”承結」を成立させるためには、冒頭に「自らの主張と真逆の一般論」を持ってくる必要がある。p.197

読者と一緒に「寄り道」をしよう

あなたの“主張”を正確な形で知っているのはあなただけであり、全ての読者は「それを知らない素人」なのである。p.199


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