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「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済 小川さやか

日本で暮らす多くの人びとは、もう長い間、その日その日を紡いでいるといった感覚とは無縁の生き方をしている。あるいは、明日どうなるかわからないといったゾワゾワを封じるために、社会全体でいまの延長線上に未来を計画的・合理的に配置し、未来のために現在を生きることがまるで義務であるかのように生きている。安心・安全が予想可能性と強く結びつき、よりわかりやすい未来を築こうと制度やシステムを高度化し、将来のために身を粉にして働く。これに反する生き方は基本的に、社会不適合で「ダメな」生き方だと考えられている。主流派社会では、操作可能性は人間を測る、評価するうえで重要な指標である。扱いづらい人間とは、操作困難な「使えない」人びとである。計画性、予測可能性を基盤とする社会にとって操作可能な人間とは、予測しやすい優秀なパーツである。(pp.7-8)

「一方で日本やアメリカのような社会では、逆に、明日のため、未来のために、いまを手段化したり、犠牲にしたり、ということを徹底的にやっている。いい学校、いい就職、いい老後のためには、いまを楽しんでる暇もない、というわけです。ここでも大事なのは効率です。あるゴールに向かって、無駄を削ぎ落として、つまり、いまを犠牲にして効率性をあげることが進歩なんです。効率化を目的化した現代社会は加速し続けるしかない社会です。効率ってそもそも、おなじものをより短い時間で生産するという生産機械のための概念だったのに、それを現代社会では、人間や自然界にそのまま当てはめてしまっている。そういう社会が必然的に生み出すのが、人間性と生態系の破壊です。スローというのは、それに対抗する概念で、平たく言えば、人間らしいペースとか自然本来のリズムを指す言葉です」(pp.22-23)

わたしたちは、近代的な時間の観念と資本主義システムとともに進展する、成果追求主義の世界やそれに寄与することを目的とする情報社会によって、〈今ここ〉の喜びを犠牲にし、〈いつかどこか〉という超越的な場所で時間を消費し生きるよう強制されている。わたしたちはつねに未来の豊かさや安心のために現在を貯蓄し、みずからの身体のある「現在」を生きていないというのだ。(p.23)

ただ実感としての時間は、同じではない。漫画や友人とのおしゃべりに夢中になっているときには時間はあっという間に過ぎていき、退屈な講義を聞いているときには時間は遅々として進まない。過去—現在—未来の区別も、一分一秒という時間の単位も、もともとはわたしたち人間が生活や社会、経済を動かしていくために便宜的に生み出した概念である。だが、わたしたちはいつの間にか便宜的に生み出された時間の概念に生活や社会、経済のリズムを合わせ、人間の生存を時間によって規定するようになった。そのような時間に規定されない暮らしとは、どのようなものだろうか。(p.34)

アマゾンの先住民には豊かな物質文化があることが報告されているが、ピダハンは芸術作品どころか、道具類もほとんどつくらない。物を加工することがあっても、長くもたせる手間はかけない。肉の塩漬けや燻製といった保存食もつくらず、食べられるときには食べつくし、ときには何日も食べない。彼らは英語版の著書のタイトルである「寝るな、ヘビがいる」の言葉どおり熟睡しない代わりに、いつでもどこでも転寝をする。人類学者が好んで調査してきた、儀礼らしき行為も存在しない。葬式や結婚式、通過儀礼もない。創造神話も口頭伝承もない。曽祖父母やいとこの概念も存在しない。それどころか彼らの言語には、ありがとうやこんにちはなどの「交感的言語」も、右左の概念も、数の概念も色の名前もないのである。(p.36)


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