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推す、推される

「推し」という言葉は便利だ。

好きだけど、好きより推しの方が言いやすい。

推しは何人いてもいい。最推しという言葉もあるが、別にそこら辺の判断はその人の自由だと思っている。

「推し」という言葉は一方通行だ。

推している。見返りをそこに求めている感じはあまりないような気がする。

好きだ、付き合いたい。というニュアンスが入っている場合もなくはないが、全てに適用されるわけではない。

何となく勝手に好きな存在が推しだと思う。

私には推しが何人かいる。

また、私のことを推しだと言ってくださる人も現れた。

推される側の気持ち。そう。これをどう受け止めるのが正解なのか最初ちょっと戸惑いがあった。私は推しに対して思う気持ちがその時々で変わる。かなり重めの感情を抱きかけるとしんどいからやめろと思う。一方的であることを見失い、何となく会える想像などをしている。こんな自分が気持ち悪い。あまりにでかい感情を抱えるたびに推しに対して申し訳なく思う。やめたい。

そういう目を自分に向けられているのか?と思うと、戸惑う。

いや、向こうからすると「推し」は違ったニュアンスかもしれない。わからないけど。

全肯定してくれるような感覚。「何をしてもまぁ推しがそういうならいい」と言われている感じ。本当にいいんですか?と思う。

それを私の推しも思っているのだろうか。どうなのだろう。

推される側ってどういういう心持ちなのだろうか。なんだかくすぐったくない?

好かれることと似ているが一致はしない。このもどかしさはなんだ。





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