「私は頼られるのは好きだが、あてにされるのは嫌いなんだ」

「頼る」と「あて(宛て)にする」の考察。

「私は頼られるのは好きだが、あてにされるのは嫌いなんだ」

引用は、アニメ『みなみけ』の千秋のセリフ。お気になので記事にしてみる。

①動画名 みなみけ おかえり 7話
②投稿者 Dアニメストア
③URL https://anime.dmkt-sp.jp/animestore/sc_d_pc?partId=21423006
④引用する部分の時間・分・秒 15:10付近

詳細に考察した方が他にもいらっしゃったのでこちらも↓
https://blog.daruyanagi.jp/entry/2012/05/18/102103/

結論


私は等価交換派。
「xxxHOLiC」(https://anime.dmkt-sp.jp/animestore/ci_pc?workId=22161)とか
「鋼の錬金術師」(https://anime.dmkt-sp.jp/animestore/ci_pc?workId=20128)とか。
侑子さんの
『何事も過不足なく、貰いすぎても貰わなすぎてもいけないのよ』
という、よく似た形で頻出するお約束セリフが印象的。


①「立場の強いものが立場の弱いものを助けることは当たり前!」
というような言をよく見る。
けれど弱い側も守られるだけの根拠を持たなければ相互互助(御恩と奉公的な)は成り立たない。
ノブレスオブリージュという概念が好き。共感もする。同意もする。

だけど、それを前提にしても、①のような考え方は、(ノブレスオブリージュを行う側に)日頃から敬意をもって、尚且つ、義務を果たしているかどうかも問われなければ釣り合いが取れない。
また、両陣営ともに「見返りを求めるのはけしからん!」という論理を振りかざしてしまうと釣り合いが取れず、一方を疲弊させるだけの考え方に思う。
「尽くして当たり前」「尽くされて当たり前」もまっぴら。
そんなわけでお互い、いい関係を保つために、
『何事も過不足なく、貰いすぎても貰わなすぎてもいけないのよ』
というセリフに繋がる感じ。
(勿論、原則は原則として、TPOで『自発的』に見返りを求めないのはあり。交通事故の現場とか天災だとかに居合わせて行動するようなこと…、
⦅尊い⦆)

「頼る」と「あて(宛て)にする」の違い

頼る場合のパワーバランス
依頼側が「弱」、助っ人側が「強」

あてにする場合のパワーバランス
依頼側が「強」、助っ人側が「弱」
(「あてにする」状態は、本来のパワーバランスが崩れている。)

頼られる側の心理として
①努力の痕跡がみられるか(自助努力)
②状況として同情できるか(状況の理不尽具合)
③相手に対して保護欲がわくか(印象の好悪)
④不遜・敬意はどの程度のバランスか(頼み方)
他にもあるだろうけれど、これらを参考に、「頼る」と「あてにする」が判断される。

「頼る」とみてもらえる行動、は上記そのままで
①努力は十分にされているようで、
②状況の質として、客観的にみても理不尽で、
③頼んでくる相手との関係性は普段からよく、
④頼み方も丁寧。
⦅守りたいその笑顔⦆

散見される、あてにする側の行動心理。
「あてにされている」と受け取られる原因は、大体上記の逆。
加えて↓
①助けられること(=「施し」)が前提(助けられる側なのに何故か強気)
②施しが当たり前になると、施しを受けられないことに不満を持つようになる。
③『施し=通常』、という天秤のバランスが常態化しだすと、
その天秤の状態をニュートラルとして認識する。(実際は偏りがある状態にもかかわらず)
④その歪なニュートラル状態から、「施し」という分銅を秤の皿から抜いたとき、天秤は不快側に傾くことになる。
⑤不快は「嫌悪」や「憎しみ」を生む。
⦅理不尽⦆


『人の善意=当たり前』
という認識を持たないこと。
これができれば「あてにする」行動もそうしなくなるのだろうけど。
簡単なようで、これ難しいっす。

※話がずれるので別記事に。そのうち追記するかもしないかも。

ではでは今回はこの辺で。


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