優しさとその依存性について——逃げてもいいんだよ論

 少し前に「逃げてもいいんだよ」的な言説が流行りました。その言葉にはわたしも概ね同意していて、学校、職場、人間関係において深いダメージを負ったり死に至るようなことが予想される場合、さっさと逃げた方が賢明であるように感じます。ナイフを持って追いかけてくる人がいる状況で「逃げるな!!戦え!!」と言う人なんていないですけど、苦しい環境にいる人にとってはその環境ってナイフに等しい訳と思うので。
 でもその後、それに対して「無責任だ。誰も責任をとってくれない」という反論がよく見られるようになってきました。こういう流れはネットにありがちなのですが、”草ポケモンが相手の場に出ているから、勝つ為にとりあえず炎ポケモンを出している”だけで、本当に考えて発言しているのかすら怪しいと思っています。別に逃げた責任を誰も取らないのと同様に、逃げなくて壊れた責任も誰も取らないですし。
 ただ、こういう意見が全くもって的外れかというとそうではなくて、すげーダルいけど向き合って取り組むべき場面をすべて回避すると、それはそれでダメージを負ったり死に至ったりすると思います。「どっちやねん」と思う人もいると思うんですけど、寧ろ今の世の中が”どっちか”を決めたがったり、極端な形で「どっちのスタンスですよ」ということを表明しすぎだったりするだけで、大体のことは”どっちも”だし状況によって調整しながらバランスを取り続けなければいけないと思っています。
 
 話は少し変わって、わたしはロックミュージックが大好きで、音楽的な部分だけではなく、思春期には特に歌詞やその姿勢に救われていました。苦しい時に心の居場所を作ってもらえたし、自分のダメな部分も肯定してくれたような気がしてくれたのです。ただ、同じ音楽を好きな人達が「ダメでいいんだ!」、もっと言うと「ダメであればあるほど面白い」みたいに解釈していって、性格も生活も破滅していく場面も何回も見ました。まあ、ミュージシャン本人もダメ過ぎて、たまに破滅しちゃうんですけど。
 あと、これは色んなジャンルのクリエイターを対象にリアルタイムでも起きていることなんですけど、挙げ句の果てに救ってくれた人たちに対して「こいつら成功者じゃねえか!仲間じゃなかったのか!裏切りもの!」と言い出したりすることもありますね。でも、寧ろ自分と同じようにダメな人が成し遂げていくことって希望だと思うので、救われつつも一緒にやっていきたいとわたしは思います。
 そのバランスを教えてくれるバンドがザ・ブルーハーツで、ブルーハーツは慰めるだけじゃなく、一緒にやっていこうとしてくれるから大好き。同じ歌の中で”気が狂いそう”と”ガンバレ”を一緒に伝えてくる(人にやさしく)の凄すぎる。

 前置きが長くなってしまったんですけど、わたしは優しさや救いのことを”鎮痛剤”に近いと思っています。それは、痛みを緩和してくれるけれども、あくまでその場をやり過ごすもので最終的には健康を目指して使うものですよね。でも、用法用量を守らずに使ったり、病気そのものや病気になるような生活を改善していかないと、時に薬漬けになったり病状で破滅を迎えてしまう訳で。”アルコール”とかも近いかな。
 それを自分にとって人生を助けてくれる良いものにするか、ただの麻薬にしてしまうかは、最終的には自分のスタンス次第だと思います。本当に悪い大人は上手にその辺を利用してシャブ漬けにする商売をしてたりするんですけど。

 まあ、わたしもダメなやつだが、優しい人になったり逃げたり頑張ったりするから、いい感じに優しくして欲しいし一緒に逃げたり頑張ったりしよう!!ワッハッハ!!

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