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退職を考えるきっかけ

自分はいつから退職を考えるようになったのか?と退職を伝える中でふと思った。
ここ数年は人間関係も辛かったが
それだけではなかったな。と思い返す。


特別支援学校に勤務して数年経ち、10年研を終え、どんどん学校という組織の仕組みや仕事の難しさが見えてきた。
また、知的障害の生徒だけでなく、肢体不自由と知的障害を併せ持つ生徒に自分をすることも増えてきた。
重度の障害をもつ生徒の授業も増えた。
それだけ経験を積んできたんだと思う。

自分の授業を自己満足だけにはしたくなくて、生徒の反応やT Tで関わる他の教師にも助言をもらったりしていた。
ただ、反応が読み取りにくい子や重度の障害の子がほとんど。悩みながら、習いながらもアセスメントや評価の観点も含めて、それなりに反応や授業の改善は丁寧にやっていたつもり。

誰も持ちたがらない授業を私がやってくれないかと打診がきた。5人の生徒に5人の教師がつく。最重度のグループ。手探りながら自分の専門である家庭科から離れて2年間受け持った。
しかし、管理者からの授業評価では「指導案は80点以上、指導は50点以下」と厳しく言われ、かなり落ち込んで自信を無くしてしまった。
周囲からは気にしないように言われ、励ましてもらった。自分の評価ばかりを求めて授業をしていた訳ではないけど
自分の授業評価の基準となる拠り所がなく、あれから自分の授業に迷いがよく生じるようになった。
この学習内容でいいなと思って頑張ってやっていても、
どこかでどうせ何しても50点かもしれない。と心の中で思っていたのかもしれない。
生徒にできることが増えていくのは成長や発達が右肩上がりの時。
じゃあ、進行性の障害の子や発達がかなりゆっくりな子はこの授業内の短いスパンで何を積み重ねていくのがベストなのか。それくらい結果がいつでるのかでないのかわからない学習や指導を積み重ねる難しさが特別支援学校にはある。

書きながら思い出したのが、
進行性の障害の生徒を担当していた時に
同じクラスのベテランの先生に、
毎日、自分のしている事が無意味なのでは?と思えて、何していいかわからないと相談した事があった。
その先生は、
教師ができることなんてほんの僅かで、それでその子の人生変わるなら、みんなやっているし、みんな成長している。
だから私達教師は毎日笑顔で生徒を迎えて、目の前のことをやっていくだけなんだよ。と。
その子(生徒)が何もできなくても、いるだけで生まれる関わりがある。それが大事だと。

結局、コロナやなんやかんやで日常が非日常になり、そう思い続けて生徒と関わる事が私にはむすがしかった。
こんな大切な事を言われていた事も
今しか思い出せなかったなー

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