居場所:ヤマ編(1)

ヤマは初対面だと言うのにしきりに32はいい店だという話ばかりしていた。いや、正確には32の話しかしなかった。
私はその間、感心するように彼を眺めていた。
ヤマは長身で細身で、腰まで伸ばした黒髪は美しかった。世界とのつながり方なら知っているというように、投げやりに毛皮のコートを着てレイバンのサングラスをかけていた。完璧だった。
海外のファッション誌から今抜け出してきた、という風貌でカールスバーグを飲み干した。(その店にはビールはカールスバーグしかなかった。)

私は阿倍野で迷子になっていて、ヤマのことを思い出した。確か32は阿倍野にあると言っていた気がする。興味本位で32を探して彷徨することにした。
ヤマにもう一度会いたかったというのが本音だったかもしれない。

聞いた道をどう反復しても、店があるような場所には近づかなかった。街灯すら少なくなり、私は担がれたのかもしれないと思い始めた。そう言われれば信じられるものは何もない。ヤマの強烈な存在感の他に信じられるものは何もなかった。それすら数ヶ月たった今となっては幻のようだった。

引き返そうとした時、ビルの地下に続く階段下のドアに32と刻印してあるのを私は見た。
32
何の店かはわからなかった。灯りのないビルの地下、それは店かどうかも怪しかった。
だが、私に迷いはなかった。
ヤマは実在したし、32も実在した。

事実、私がその重いドアを開けるとヤマがカウンターで他の客と口論していた。早口で攻撃的に何かまくしたてていた。
店のマスターらしき気の良さそうな中年の男性が苦笑しながら私に会釈した。
ヤマはそれで私に気づき、表情を変えた。子どものようにすごく嬉しそうに私を手招きした。

その日のヤマは長い髪を後ろで無造作に束ね、古着のシャツと女物のジーンズを履いていた。サングラスもかけていなくて(彼はサングラスをかけていなくても切れ長の目の綺麗な顔をしていた)人懐こく笑った。
私はその時初めて笑うヤマを見た。

本当に来てくれたんだね。」
「行くと言ったじゃない。」私は小さな嘘をついた。
「『行きたい!』『絶対行くよ』みんなそう言う。クズだ。」
「タロさん、生!僕の払いで!」
マスターは「ヤマ君今月は家賃払えるの?」と冷やかすように言いながらビールを入れた。
「それとこれは別の話だろう」むっとしたように言うと、ヤマは私を席に促した。
「お話中じゃなかった?」私は控えめに、入って来た時口論していた客の方を見やった。
「ああ、討論だ。宮内さん、討論中止。」
「勝手な奴だよ。」宮内さんと呼ばれた客は肩をすくめて、「しかしヤマが女の子を連れてくるとはねぇ。タロさんここに女の子が来たことがあったかい?」と続けた。
タロさんは「…そうやなぁ、森さん?」とビールを私の前に置きながら言った。
宮内さんは「女の『子』かい?」と言ってまた肩をすくめた。

ヤマはカウンターに置いた小皿を私に勧めた。「僕が作ったクッキー、口に合えばうれしい。」小さな声で囁いた。
ヤマはおそらく私のような「普通の」人間と話したことがなかった。(「クズ」とは口を聞かない方針らしかった。)
この店に来る人は、みんな本や演劇、映画そういったものに造詣が深いらしく「討論」はとどまることなく熱く続いた。政治的なやり合いも聞こえてきた。
私は半分聞き流し、たまに知ってる固有名詞があるとできるだけ短い感想を言った。
店の客たちは新顔に中途半端に笑みを向けたが、ヤマは私が口にした短い言葉たちについてしばらく真剣に考えていた。
それから、「君はブローティガンを読むといい。」と言った。

「僕の部屋に来ればいい。ほぼ全部揃ってる。」と言ってチラリとカウンターの中の時計に目をやった。
「あの時計は止まっている。君の電車はもうない。」

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