みんな怪物、みんな怪物ではない。全部真実、全部真実ではない。

映画「怪物」を観た。映画に関しては事前知識を一切入れずに鑑賞するのが自分なりの美徳なのと、本作についてははじめは観る予定がなかったので、予告編で聞いた「怪物だーれだ」しか記憶に残っていなかった。

以下、本編の内容に触れるので、これから鑑賞を予定する場合は読まないことをおすすめする。

はじめはよくある社会派映画の印象。いじめを受けていると思しき少年の様子をおかしく思った母が学校に乗り込み、教師の態度に不信感を覚える。どこか心ここにあらずな子どもは、急に髪を自分で切ったり、靴を片方だけ失くして帰ってきたり、乗っている車から急に飛び出したりと日々突拍子もない行動に出る。実はいじめは子どもの担任によるものらしいと判明し、担任は責任を取って学校を辞める。しかしその直前に、我が子が他の児童をいじめていたということを担任から告げられ、その証拠に子どもの荷物からチャッカマンが出てくる。いじめの対象となっていたらしい子どもの家を訪ねると、その家には我が子の靴の片方があり、その子の腕には火傷なのか痣が残っていた。

という流れで始まるこの映画だが(何も見ずに書いているので流れが違ったら謝罪!)、ここまでの話の筋はすべて「少年の母」の視点で見たものであり、実はこのストーリーは非常に多面的で、登場人物それぞれの視点から見ると全く異なる捉え方になるという構造になっている。

通常、映画や小説には主人公がいて、受け手はその人の視点から見た解釈や感情に触れ、そこに共感などの感情を抱く。
この映画では、追っているストーリーは同じはずなのだが、視点はずっと不完全で、誰かの視点ではあるピースが足りず、また別の誰かの視点でもあるピースが足りない。パズルならピースが揃えば自然と穴を埋めあうことができるが、人間なので視点の相互補完性がない。鑑賞しているこちらは、ストーリーを追っているうちに「ああそうだったのか」と納得することができるが、話の内側にいる人々は目の前の出来事をそれとして自分の視点から解釈するのみで、他の人の視点に染み出すことがない。

はずなのだが、瑛太演じる保利先生は違った。
詳しい役どころは映画を観てほしいのだが、保利先生はとにかく悲惨な目に遭う。多分この映画で一番何も悪くない。濡れ衣すぎてビッショビショになっている。途中から本当に可哀想で、梨泰院クラスのセロイを見ているような気持ちになった。
その保利先生は、あるヒントをきっかけに他の人物の真意に気がつくことができ、その視点をもってして他の人の視点に踏み込むアクションを起こす。
それが結果的に何かに繋がったわけではなかったのだが、誰かの視点の欠片が落ちていたとき、それを拾って自分の解釈を広げることもできるのだな、と感じた部分だった。

「視点が違えば物語が違う」ことの例として、個人的に記憶に新しいのが桃太郎である。
桃太郎は鬼退治に成功したいいヤツ!すごいヤツ!という持ち上げられ方をしているが、鬼の視点ではどうなのだろうか、というもの。「ボクのお父さんは、桃太郎というやつに殺されました」という作品が印象に残っている。

誰かにとっての幸せは、誰かにとっての不幸かもしれない、という示唆を与える作品だが、今回の「怪物」はシンプルな幸不幸の裏返しというよりは、ひとつのストーリーに複合的な人物の感情や解釈が絡まった結果、誰かの立場に立って見る物語が全く別の話のように感じられる、という点で新鮮さを感じた。

個人的に、この映画の主人公は少年二人だと捉えている。
少年二人は、お互いへの特別な感情をどうしたら壊さずにおけるか、どうしたら自分を、相手を守れるか、を考え、そして行動していた。
ここが相手を守ることだけでなく、自分を守ることも同時に考えているあたりがとてもリアルで人間らしいと感じた(例えばいじめに加担、とまではいかなくても、無言の賛同をしてしまったり、そうかと思えば歯がゆさから急に暴れ回ってしまう、など)。
子ども故のピュアさや猪突猛進さによって、他の人の視点からは二人の感情の機微を読み取ることができず、結果的に二人がいろんな人を巻き込んでいくような構図になっている。
二人は被害者でもあるし、知らず知らずのうちに加害者にもなっている。怪物だとも言えるし、怪物に襲われたとも言える、
母親が求める理想の男性像、ひいては人生像を自分は叶えることができないことに罪悪感(なのか、焦りなのか、自分でもよくわかっていない苛立ちにも感じた)で、一人で問題を抱えようとする少年。
どこか達観していて、いじめも飄々とかわしているようで、父親に「病気」と決めつけられていること含めすべてを諦めているようにも思え、しかし自分に好意を寄せてくれているらしい少年の存在で目の奥にワクワクを潜ませていそうなもう一人の少年。

その二人が、ただひたすらに自分たちの居場所を探し求め、もう一度誰にも触れられない神聖な世界に生き直そうとしている物語に見えた。最後、呼吸さえもしやすくなったように見える二人が楽しげに走り回っていたのは、そのままの世界の中での話なのか、違う世界での話なのか。

二人が「真実」であると同時に、他の人から見た物語もそれはまた「真実」なのである。

例えばこの映画が本当に少年の母の視点でだけ描かれていたら、「自分の子どもが学校で担任からいじめに遭っていて、学校はまともに取り合ってくれないし、子どもも何を考えているのか突拍子もない行動に出るし、挙げ句の果てには子どもがいじめをしていたという説まで浮上して、頭が混乱して爆発しそうになったと思ったら子どもが急に行方不明になった」という話になる。しかし物語の解釈の角度はそれだけではない。これは物語の内側にいない、鑑賞している受け手だからこそ享受できるものだなと思う。

あとは、日本の映画で、しかもカンヌで受賞している作品で、このようなテーマを取り扱ったことに驚いた。少年同士がお互いに抱く特別な気持ちを取り上げたこともそうだし、「男らしさ」みたいなものへの懐疑的な視線など、「今」だからこその作品だなと思ったし、その「今」がこれからは当たり前になっていく世界線で生きていたい。

一先ず新鮮な気持ちで感想を書き残しておきたく、一旦はここまで!
これから考察を読み漁って、違う人の視点にも触れにいくとする。

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