自分が「初音ミクが死んだ」という表現がよく分からないのはなぜか?
最近、こんな文章を読みました。
ネットで時々議論される初音ミクの「死」。それは良いのだけど、「初音ミクが死んだ」という主旨の発言もあって、自分はそこがよく分からなかった。自分は「え?まだ初音ミクはそこにいるよね」という反応をしてしまう。
ここで注意したいのは、時々見かける「初音ミクはオワコン」のような「初音ミク」は終わったと見なす人の発言とも違い、その発言者は「初音ミク」を変わらず好きで追いかけているようである。初音ミクは「死んだ」けれど、今も「生きている」らしい。そこも分からない。
そんな自分が、「初音ミクが死んだ」と言っている人の「死」の意味を理解しようと考察した内容をここに書き留めておこうと思う。
自分の中では一定の理解は得られたので、参考にしたい方は読み進めて頂ければ。結論だけ読みたい方は、最後の5段落だけでも構いません。
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あんでっどさんの最初の記事はボリュームのある長文で、飛ばし読みしながら一度読んでみたけれど、あまり理解は深まらなかった。
しかし、その続きのこの記事を読んだ時、リスナーTさんのツイート「自分と自分の中の初音ミクが変わったから死んだって言ってるってことですかね?」で、初音ミクの「死」について語っている人の言いたい事がなんとなく分かった気がした。
つまり、初音ミクに出会った時に自分の中に描いた「初音ミク」像が、自分の中で変化したことを「死」と呼んでいるのだと理解した。
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自分は「初音ミクが死んだ」がよく分からない。それはなぜかと考えると、初音ミクに出会った時は(今もだけど)、その可愛らしい合成された歌声が「初音ミク」像の原点なので、その歌声が繰り返し聞ける間は、初音ミクは「死」んでいないと思うからなのだろう。
なので、「自分と自分の中の初音ミクが変わったから死んだ」という考えを自分に当てはめると、自分が好きな初音ミクの歌声が、初音ミクに出会った当時に聞いた歌声と変わったのなら、自分にとって初音ミクは「死」を迎えるのかもしれない。考えにくい事ではあるけれど、例え話として。
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ここで自分が初音ミクに出会った当時の考え方を確認しようと、自分が初音ミクについて初めてネットに公開した文章(ブログ記事)を読み直してみた。
初音ミクを紹介してみる - 日替わり NAT’s Champlo / http://d.hatena.ne.jp/NAT/20071016/p1
どこに心動かされたのか読むと、「初音ミクによるボーカルと、初音ミクに触発されたクリエーター達による音楽作品」が素晴らしいと書いている。「ボーカル」と、「初音ミクに触発されたクリエーター達による音楽作品」の2つ。
もしかしたら、後者の「初音ミクに触発されたクリエーター達による音楽作品」、言い換えると、みんなで初音ミクの作品を作る創作文化、それが無くなってしまったら、自分は「初音ミクが死んだ」と呼んでしまうかもしれない。
でも、その初音ミクの歌声も創作文化もまだそこにある。なので「初音ミクが死んだ」という発言に、「え?まだ初音ミクはそこにいるよね」と考える。だから、その発言の意味がよく分からないのだろう。
それは「初音ミク」が指す対象が異なるから。自分の方は、初音ミクの歌声と創作文化の事を考えるけれど、「初音ミクが死んだ」と発言している人はそれを指していないようだ。具体的に何を指しているかは、いまだに分からない事ではあるが、少なくとも発言者の中にある何らかの「初音ミク」像であるようだ。
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以上の考察を経て、「初音ミクが死んだ」という発言は、「自分の中に描いた『初音ミク』像が、自分の中で変化した」という意味なのだと理解した。
付け加えると、自分の中での「変化」なので、別の「初音ミク」が「生きている」ことも同時に成立する。
結局、自分が「初音ミクが死んだ」という表現がよく分からないのは、「初音ミク」が指す対象が自分とは異なるからなのだろう。自分の方は、初音ミクの歌声と創作文化の事を考えているから。
とりあえず、理解が1つ進んだので、今回の考察はここまでにしたいと思います。「初音ミクが死んだ」=「自分の中に描いた『初音ミク』像が、自分の中で変化した」が対象とする「初音ミク」像とは具体的に何なのか、「死んだ」のはなぜなのか、まだ理解が及んでいないところは残りますが。
この文章が、初音ミクの「死」について議論するうえで、多少でも参考になるならば幸いです。
(2017/5/14 14時:公開時から少し文を追加しました。「初音ミクはオワコン」のような論とは違う文脈である事を示すために、導入と最後に文を足しました。)
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